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海を渡ったマイナーリーガー。社会人名門チームからマイナー経由でNPBへ

阿佐智ベースボールジャーナリスト
社会人野球からアメリカに渡りマイナーリーグでプレーした元オリックスの井戸伸年氏

 先日のドラフトで元メジャーリーガーの田澤純一投手は指名されなかった。これについて、「アメリカプロリーグ経験者はドラフト対象外とすべきだ」という声が挙がったが、このルールが成立する背景にアメリカのマイナーリーグ、独立リーグが「ドラフト破り」の隠れ蓑になる懸念がある。つまり、特定の球団に入団したいがために、一旦マイナーリーグに籍を置くということが考えられるのだ。現在では、この懸念が薄れたことがいわゆる「田澤ルール」撤廃のひとつの要因になったようだが、そのことを考える上で、アメリカのマイナーリーグからドラフト経由で日本のプロ野球・NPBに入った選手の事例を紹介したい。

NPBへの「一時的避難場所」としてのマイナーリーグ

 「私の場合は、『メジャー挑戦』なんかではなかったですよ。あくまで日本のプロに進むためのプレーの場を確保するためでした」

 ホワイトソックスのマイナーでプレーした後、近鉄、オリックスで3シーズンプレーした井戸伸年さん(43)は、アメリカでのプレー経験をこう振り返る。

 甲子園を目指す強豪校から西日本の地方大学に進み、社会人実業団の強豪、住友金属に進んだのは1999年春のことだった。しかし、時は平成不況の真っただ中。入社した年のオフには、本社の業績悪化から野球部が解散に追い込まれる。

 「幸い、会社は野球部をふたつ持っていたので、本体の和歌山からもうひとつの鹿島(現・日本製鉄鹿島)の方に移籍できました。それ自体は私にとって大きなことではありませんでした。入社したのは、あくまで野球のためで、最終目標はドラフトでしたから」

 移籍先でも主力として活躍し、2000年の都市対抗野球ではチームの四強進出に貢献。優秀選手賞を受賞した。しかし、入社3年目、2001年のシーズン後、退社してしまう。転籍の際、入社時のプロ希望の話が伝わっておらず、会社に留まることを要請されたためだった。会社の方針は、当然のようにプロ側に伝わっており、秋のドラフトで名前を呼ばれることはなかった。あくまで初志貫徹を目指す井戸さんは、次のドラフトまでの「避難先」としてアメリカを選んだ。

 1995年の「野茂フィーバー」からすでに6年。パイオニアに続いて10人が世界最高峰の舞台に立っていた。タレントの揃う世界第2のパワーハウスを前に、メジャーリーグ各球団のスカウトの目は、アマチュア球界にも向くようになっていた。

 井戸さんは、日本人エージェントあっせんで渡米し、トライアウトに臨んだ。顔の利くエージェントは、数球団のスカウトを集め、その前で井戸さんをプレーさせた。シカゴ・ホワイトソックスが興味を示し、マイナー契約を提示してきた。

 「契約金がいくらかもう忘れました。微々たるものでしたよ(笑)。給料は月1000$くらいだったと思います。条件はどうでもよかったです。とにかく次へのつなぎでしたから」

 2002年、「プロ野球選手」として井戸さんは太平洋を渡った。しかし、視線の先にあるのは、メジャーリーグではなく、NPBだった。実力的にはメジャーリーガー予備軍の集う2Aあたりからのスタートが妥当なところだったが、前年秋に起こった同時多発テロの影響でビザ発給の審査が厳しくなり、チームに合流したのはキャンプ終盤の3月末だった。キャンプ地のアリゾナに到着した井戸さんは、延長キャンプに回され、実戦は6月開幕のルーキーリーグからとなった。ここでは、21試合の出場で打率.245、ホームラン1本に終わったが、シーズン終了後には、シングルAへの昇格が告げられた。日本の社会人野球のトップレベルでプレーしていた井戸さんの目に「本場」の野球はどう映ったのだろう。

 「アメリカの方がもちろんレベルは高いですけど、ルーキークラスになると、その実力はピンキリでした。トップでいうと、向こうではアパートを借りてチームメイトとシェアしていたんですが、その中には、のちにエンゼルスで活躍するクリス・ヤングがいました。のちに巨人のセットアッパーになる山口鉄也君も相手チームにいましたよ。当時はスピードがなく、日本であれほどやるとは思いませんでしたけど。皆さんアメリカの野球は自由でノビノビしているイメージをお持ちでしょうが、指導方針は、アメリカの方が厳しいです。ルーキー級だとプレースタイルに自由度はなかったですね。ルール面でも、ひげはもちろん、サングラス、ロングパンツが禁止だったりしました」

 帰国後、関係者のつてで、近鉄バファローズの秋季練習に練習生として参加。ドラフト9位指名を受け、晴れて日本でプロ野球選手となった。

日米プロ野球を経験した目線から見る日本野球

 NPBでは、チームの合併などもあり、力を発揮することができず、一軍の公式戦出場のないまま3シーズンで引退となったが、その後、サラリーマン生活を経て、野球アカデミーを運営している。その現在の仕事に、アメリカでの経験は役立っていると井戸さんは言う。

 「今、私は野球を教える立場ですが、アメリカでの経験は非常に参考になっています。向こうは、コーチが教えるべきことがマニュアルで決まっているので、日本みたいにあれこれ教えることはないです。プロレベルでは、日本のように指導者の経験を伝えていく方がいいと思いますが、ジュニア層の育成では、アメリカのマニュアル化というのは非常に効果的です。指導者が共通認識をもつことによって子供たちが迷うことがない。日本では、複数の指導者が個々の経験や感覚で表現してしまい、混乱することが多々ありますから。その表現の違いって、後でわかることも多いんですけどね。でも、子供に指導では、言語化は非常に大事だと思います」

 そういうこともあって、自身の経験を踏まえた上で、井戸さんは、日本人選手の「メジャー挑戦」を肯定的にとらえながらも、アマチュアからいきなりの渡米ではなく、NPBを経由した方が現実的だと考えている。そして、実際「田澤ルール」撤廃後もそうなっていくだろうと予想している。

 「選手の可能性を広げるという点では、渡米もいいと思いますよ。成功するしないは別の話ですが。でも結局、日本のプロを経由してからアメリカに行った選手の方が実績を積めば、自然とそういう流れになっていくだろうし、アマチュアから直接向こうに行って活躍する選手が増えれば、逆にそれが主になっていくということじゃないですかね」

 日米両国のファームを経験した井戸さんの目からは、育成力という面では、NPBの方が勝っていると映る。だから、今後日本球界がドラフト上位の選手を引き留めるカギは、育成のプランだろうとにらんでいる。

 「選手目線でも、日本の方が余裕をもてます。向こうはいつクビになるかわかりませんから。食事面でも、最近のことはわかりませんが、私がアメリカにいた時は、クラブハウスでとっていましたが、栄養の面はあまり考えたようなものではなかったです。日本のファームの方が絶対にいいですね。今は高校球児でもメジャーを目標にする時代。だからNPBも、育成なら日本だとか、アピールポイントを作っていく努力は必要となってくるでしょうね」

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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