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地球の裏側にもうひとつの野球が。ブラジルからやってきた日系人選手の「プロ初シーズン」。

阿佐智ベースボールジャーナリスト
今シーズンを高知ファイティングドッグスで送ったサロモン・コバ内野手

 この秋に行われたプロ主体の国際大会、プレミア12の第2回大会では、日本代表・侍ジャパンが前回大会の雪辱を晴らし、優勝を遂げたが、来年はいよいよ東京オリンピック、その翌2021年にはWBCと世界トップレベルの野球の国際大会が目白押しとなっている。

 日本の野球ファンの間ではあまり知られていないが、今、世界中に野球が広がり、プロを目指してプレーしている選手が増えている。南米のサッカー大国、ブラジルもそのひとつだ。2013年のWBCで突如として世界野球シーンに登場し、侍ジャパンを苦しめたその姿を覚えている人も多いだろう。彼らの多くはプロ選手で、日本をはじめ世界各地のプロリーグでプレーしていたのだ。

 この国に野球をもたらしたのはアメリカ人だが、それを普及させたのは、日系人たちだった。現在では野球は、この国で日系人の民族スポーツと見なされる一方、他民族からも選手を集め、有望選手をアメリカや日本に送り出している。

 昨年オフ、独立リーグ、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスはブラジルでトライアウトを開催した。ここでスカウトされたのが、サロモン・コバ内野手だ。

ブラジル野球のふるさと、サンパウロ生まれの野球少年

 サンパウロ生まれの彼は、現在22歳。ともに日系人の両親は、父は工場で管理職を務め、母親は歯科医を開業している。自身も歯科大学を卒業し、歯科医師免許ももっているというからエリート家庭の出だと言っていいだろう。彼自身は3世で、家庭ではブラジルの公用語であるポルトガル語を使っていたので、その風貌とはうらはらに日本語は祖父母が話すのを聞いて少し覚えた程度だ。それでも、第二次大戦後の日系移民再開後に父方の祖父は熊本から、母方は大分からブラジルにやってきて、サンパウロにほど近いパラナ州でコーヒーや砂糖、大豆を栽培していたという自分のルーツを知っているあたり、彼の中の日系人としてのアイデンティティは強い。

少年時代は、「普通の学校」に通い、クラスに日系人は5人ほどいたが、これはサンパウロでは珍しいことではなく、その昔はあったという日系人ゆえのいじめなどにあったこともなかった。少年時代を振り返って、「みんないい奴だった」という彼の言葉からは、現在の多民族多文化共生国家ブラジルの「今」を垣間見ることができる。

 野球を始めたのは6歳の時。この国では野球を始めるのは日系人のスポーツクラブであることが常だが、パウリスタ(サンパウロっ子)の好みがサッカーということもあって、メンバーは日系人中心ではあるものの、日系人がいう「ブラジル人」、つまり他人種のメンバーも入会OKだった。その生まれた環境のせいか、サロモン少年は国民的スポーツであるサッカーには興味が湧かなかったという。

「サッカーも最初はやっていたんだけど、パパに誘われて野球を始めたんだ。サッカーはあんまり好きじゃなかったしね。有名な選手も知らないし。ヤキュウ、オンリーね」

 とは言え、野球はブラジルではマイナースポーツ。道具さえなかなか手に入るものではない。サロモンもコーチがくれた使い古しのグラブをはめ、チームバットでプレーをしたという。サッカーに比べ、複雑なルールはプレーしているうちにいつの間にか覚えた。

「10歳の頃にはもう大丈夫だったね」

ブラジル野球界のエリートコース、ヤクルト・アカデミー

インタビューに答えてくれたサロモン選手(高知東部球場)
インタビューに答えてくれたサロモン選手(高知東部球場)

 衛星放送の発達した現在、ブラジルでもトップレベルのプレーを見ることは可能となっている。サロモンは、NHKも映るテレビやインターネットを通してメジャーリーグや日本のプロ野球を見て、野球選手を夢見るようになった。

 そしてサロモンは、ブラジルにおけるプロ野球選手への登竜門とでもいうべきヤクルト・アカデミーへの入学を許される。15人ほどが集まってサンパウロ州イビウーナの施設で行われたトライアウトに彼は見事合格した。

 このアカデミーは、その名の通り日本でプロ野球球団を保有するヤクルトのブラジル現地法人がブラジル野球ソフトボール連盟と共同で設立した野球選手の育成センターで、ブラジル全土から選抜された少年たちが寮住まいをしながら野球の技能向上に打ち込む。「アカデミー」とはいうものの、勉学を教えることはなく、アカデミー生たちは近隣の学校に通い、寮に帰ってきてから練習をする。来日するブラジル人選手の出身校は、決まって「カントリーキッズ高校」となっているのはそのためだ。

「野球はサトウ(元ヤクルトのツギオ佐藤の父)先生に教わったね。チームメイトとは高校も練習も一緒さ。午前中に学校に行って、帰ってから昼食。練習は2時から夕方までだったよ。今はメジャーリーグがかかわってきて、学費と食費だけを負担するだけなんだけど、僕らの頃は寮費も払わなければならなかったから大変だったよ」

 どうやらメジャーリーグのスカウティング網はブラジルにまで広がっており、早期から有望株を囲い込んでいるようだ。かつては、プロを目指したブラジル人野球選手の行き先は、日本が相場だったが、近年はアメリカへ渡る選手が増えている。

 より上のレベルで野球を続けるには、この国では日本以上に金がかかるようだ。サロモンの頃は、メジャー球団が費用をもってくれるようなことはまだなかったので、アカデミー生にかかる費用は、その家庭が自分で賄うか、あるいは地域コミュニティなどからスポンサーを募って集めていたという。

挫折のあとに訪れたチャンス

 メジャーリーグの規定では、北米外の選手は16歳になる年の7月から契約が解禁となる。サロモンのもとにも、16歳の時、マリナーズ、ブレーブスのスカウトがやって来てプロの夢がかなうかに思えた。しかし、ちょうどその頃、肩を故障していたサロモンのもとに最終的なオファーは来なかった。メジャーリーグ各球団にとって、ラテンアメリカ諸国の選手は素材重視だ。技術は、契約後の選手の送り先である、アリゾナ、フロリダのルーキーリーグ、ドミニカ共和国やオーストラリアのアカデミーでつければいいという考え方だ。だから、契約する選手は若ければ若いほどいい。「解禁年」の時点で故障のため契約を見送られたサロモンの元に、スカウトが来ることは、高校を卒業するまで結局なかった。

それでもプロの夢をあきらめきれなかったサロモンは、セカンドキャリアのことも考え、歯科大に進むとともに、クラブチームの名門、ニッポン・ブルージェイズでプレーを続けることにした。

「ブルージェイズは、昨年もカンピオナート・ブラジルとトヨタカップ(16チームによる1か月のリーグ戦)という2つのタイトルをとった強いチーム。専用のグラウンドもあるからね。そこでしっかり練習もできたし。ウェイトトレーニングもやったよ」

 名門チームのスラッガーとして彼は、ジュニア時代からこれまでブラジル代表のユニフォームにも何度か袖を通している。しかし、トップ代表とは大学を卒業するまで無縁だった。前回2017年WBCの予選にも出場はかなわなかった。 

そんな彼に昨年、大きなチャンスが訪れた。

 大学に通いながらのクラブチームでのプレーだったが、このプロ野球選手と歯科医という「二兎を追う」かたちのプレー継続が、夢をかなえる近道となった。国際協力機構(JICA)の事業と一環としての高知FDからの指導者派遣が行われたのだが、その際実施されたトライアウトに、大学をちょうど卒業し、進路を探していた彼が、約80名の受験者の中から合格切符を勝ち取ったのだ。

 彼の合格について、駒田徳広監督(当時)とともにブラジルに行った北古味潤球団副社長はこう言う。

「やはり、ブラジルから日本の独立リーグに来るっていうのは、選手個々の将来を考えたときに大きなリスクを抱えます。日本人の選手でさえ、NPBに進める選手はわずかですから。彼の場合、野球でダメでも歯科医という道がありますから。実力もそうですが、そのあたりも決め手になりました」

 そして年が明け、2019年1月には、母国開催となったパン・アメリカン大会予選大会で初めてサッカーと同じカナリア色のユニフォームを身に着けたサロモンは、ファースト、指名打者として、父祖の地、日本で開催されるオリンピックの出場権をかけて戦った。この大会を勝ち抜くと、2020年春に行われる南北アメリカに残された残り1枠をかけた最終予選への出場権のかかった夏のパン・アメリカン大会に進むことができるのだ。非常に険しい道だが、野球新興国・ブラジルに、これ以外にオリンピックへの道はなかった。

 しかし、メンバーのうち、プロ選手は半分ほどというブラジルに対し、メキシコ、ニカラグア、ドミニカ共和国など自国にプロリーグをもつ国々はほぼオールプロで臨んできた。メジャーリーガーはいないものの、その大半はシングルA、ダブルAといったアメリカのプロリーグでプレーする精鋭。2013年WBCでは、本戦出場という大躍進を遂げたブラジルだったが、やはりプロの壁は厚かった。

 実は、高知は日系ブラジル人のおもなふるさとのひとつだ。と言っても、そんな歴史的なことをサロモンが知る由もなく、「コウチ」というのが、ニッポンのどこにあるのかも知らないまま、彼は、2月、バットとグローブを携えて地球の裏側へ乗り込んだ。テスト生としてキャンプを過ごし、正式にプロ契約をつかみ取った。

「高知のトライアウトでチャンスをつかんで、今ここにいる」というサロモンは、四国で送った初めてのプロとしてのシーズンを、いい人生の経験だと前向きにとらえている。独立リーグとは言え、そこはプロ球団。その設備や環境はブラジルよりも格段によかった。なんと言っても、試合数がブラジルとはくらべものにならないほど多い。より高いレベルの相手との真剣勝負はなによりも自分を高めてくれる。

 ブラジルの実家では、ブラジル料理が主だったという食生活も、同室の小川投手ら同僚がコンビニ飯で済ませているのを横目に、「日本の食べ物は高い」と、自分で肉や米、フルーツを買ってもっぱら自炊している。

「ブラジル料理は基本、みんなで食べる料理なんだけどね。うちでは日本料理もミックスしていて、毎朝納豆食べてたからダイジョウブ。たくさん食べてたくさんトレーニングして精進したいと思います」

と、苦労も覚悟の上、経験を積むためにやってきたと笑い飛ばすその姿はやはりブラジリアンだ。

石の上にも3年

 そうやって飛び込んだ日本の独立リーグだったが、やはりそう甘いところではなかった。開幕当初はベンチスタート。それでも、試合には出られなくても常に同じ心がけでやっていかねばならないと自分に言い聞かせた。やがて、故郷ブラジルを思わせる夏を迎える頃には持ち前の打撃も上向きになり、駒田監督からも認められ4番を任せられるまでになった。しかし、スタメンが続くとやはり疲れが出てきたのか、次第に調子が落ち、ひと月ほどでベンチウォーマーに戻ってしまった。長期にわたってプレーするプロとはやっぱり難しいものだと痛感しながら、最後はピンチヒッターとしてサロモンのルーキーシーズンは終わった。

「苦労や経験を積むために日本にやってきたんです。とにかく3年間は一生懸命トレーニングをして、将来のことはその後に決めたいです。その先が日本のプロ野球(NPB)ならいいけれども、とにかく3年をめどにやっていきます」

 ズルズル野球を続けるつもりはない。3年後には答えを出して、ブラジルには戻るつもりだと言う。歯科医免許というセカンドキャリアへの切符はもっているが、今は野球に専念だ。帰国後も、同業の母親に頼ることなく、自分で道を切り開くつもりだ。

「ここではたくさん食べて、たくさんトレーニングして精進したいと思います。だってそれは非常に簡単なことだから」

 サロモンが、2019年シーズンに四国アイランドリーグplusで残した数字は、36試合で打率.208、15安打5打点というものだった。正直なところ悔しさの残るルーキーシーズンとなったが、父祖の地、日本で彼は、次のステップを狙っている。

(写真はすべて筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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