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「引退試合バブル」を考える

阿佐智ベースボールジャーナリスト
本場メジャーリーグでも「引退試合」は行われる(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

プロ野球もいよいよレギュラーシーズンを終え、ポストシーズンの季節となった。その昔は、9月後半から10月前半と言えば、長いペナントレースのゴールテープを切る優勝シーンに注目が集まる一方、大方の球場には閑古鳥が鳴き、秋風が吹くという、ある意味、風物詩とも言うべきシーンが目立ったが、クライマックスシリーズの効果もあり、近年は「消化試合」などという言葉は死語になったかのように、シーズン最終戦まで各球場のスタンドは多くのファンを迎え入れている。

 5日に行われた、京セラドームでのオリックス・ソフトバンク戦は、順位がすでに決まっているにもかかわらず、公式発表で満員の3万5000超の観客を集めた。ファンのお目当てが、この試合限りで引退した小谷野栄一であったことは間違いない。小谷野は2点ビハインドの9回裏2アウトから代打で登場、球場全体から湧き起こる声援を浴びたものの、ショートゴロに倒れ、16年間の現役生活にピリオドを打った。彼の最後のユニフォーム姿を見て、オリックスのファンの中には号泣している者もいたのだが、私はふと思った。彼がオリックスでプレーしたのは最後の4年間だけで、レギュラー選手として活躍したのは昨年1シーズンに過ぎない。オリックス球団が現在のところ最後に出場した2014年のクライマックスシリーズでは、敵方の日本ハムファイターズの一員としてレギュラーシーズンで惜しくも2位に終わったオリックスを彼は敗退させている。彼の現役生活の大半は日本ハムで送ったもので、彼が生涯に残した1260安打のうち、オリックスで放ったものは276本に過ぎない。正直、オリックス球団にとって、「引退試合」の舞台を用意するような選手ではないし、彼の引退にファンが号泣するシーンにも違和感を抱く。

「引退試合」百花繚乱

 これだけではない。ざっと見ただけでも、今年も9月後半からは引退試合のオンパレードだった。

 クライマックスシリーズ圏内の3位争いを繰り広げていたDeNAは、9月21日、今季8試合のリリーフ登板で防御率8.38の加賀繁を先発のマウンドに立たせ、中日の先頭打者、平田を三振に打ち取ったところで交代、試合後には盛大に引退セレモニーを行い、彼を苦手としたヤクルトの主砲、バレンティンの惜別映像までがこの場で流された。その翌日には、G後藤武敏が、横浜高校時代の同級生、松坂大輔の目の前で現役最終打席に立ち、引退セレモニーでは、松坂と同じく高校時代の同僚である小池正晃コーチから花束の贈呈を受けた。

 そして29日には、中日の浅尾拓也、野本圭、30日には日本ハムの石井裕也が、それぞれホームゲームで引退試合を行い、10月3日には、かつてのソフトバンクの左のエース、大隣憲司(ロッテ)が思い入れの深い古巣ヤフオクドームで先発のマウンドに立ち、先頭の上林誠知にライト前ヒットを打たれた時点で早々とマウンドを譲っている。そして、10月4日には広島の天谷宗一郎がホームでの巨人戦に1番センターで先発出場。1回の表にセンターフライを2つさばき、その後の打席でキャッチャーゴロに終わるとベンチに退き、試合後セレモニーを行った。同日、千葉マリンスタジアムではロッテ一筋16年の金沢岳の引退試合が行われた。この試合はまさに彼のためにあったと言ってよく、始球式は彼の愛娘がつとめ、6回に代打で出場した彼はレフトフライに倒れるものの、その後マスクをかぶり2イニングを無失点リードで抑えると、8回に巡ってきた第2打席では三振に終わった。もちろん、試合後はチームメイトから胴上げされた。そして6日にはソフトバンクの主力を張った本多雄一が引退試合のフィールドに立った。

 とまあ、目に付いた引退試合を列挙してみたが、正直私は金沢という選手のことは全く知らなかった。調べてみれば、現役16年とはいうものの、実働(一軍での出場)は9年で通算176試合の出場、一番多い年でも56試合である。彼には申し訳ないが、この程度の成績の選手になぜ引退試合が行われたのか、私にはわからない。上に挙げた選手たちのうち、一時期でも主力だったと言えるのは、小谷野の他、2011年のセ・リーグMVPに輝いた浅尾、カープの暗黒時代を支えた天谷、大隣くらいで、後の選手は正直脇役でしかなかった。主力だった選手にしても通算成績では、球史に残るような数字は残していない。

かつては「特権」だった「引退試合」

 個人的な記憶になるが、私が初めて目にした引退試合は、1989年3月、名門阪急を買収して発足したオリックス・ブレーブス対巨人のオープン戦だった。前年の阪急ブレーブス消滅とともにユニフォームを脱いだ、通算1065盗塁の「世界の盗塁王」、福本豊と、通算284勝の「ミスターサブマリン」、山田久志が、オリックスブルーのユニフォームをまとった選手に交じって、赤い阪急のユニフォームで西宮球場のフィールドに戻ってきたのだ。この試合で山田は1イニングを投げ降板、福本は指定席の1番打者として初回の打席に立つと、その後はオリックスのユニフォームに着替えて、ファーストベースコーチのボックスに立った。この頃、引退試合とは、今でいう「レジェンド」だけに許されたもので、それはオープン戦で実施されるものだったのだ。

 そもそも引退試合とは、野球協約の「10年選手制度」において認められた権利であった。すなわち、同一球団で10年以上プレーした選手は、引退に際して、その年のオフ以降に催されるオープン戦のひとつを「引退試合」として挙行し、その収益を手にすることができるというものだ。この制度に基づき計12人の選手が引退試合を行っている。

 この制度は1975年限りで廃止されるが、その後も、昭和の終わり頃までは、引退試合と言えば、引退の次の春のオープン戦で行われるのが相場だった。先述の福本、山田の他、1987年春には谷沢健一(中日)、その翌年には今年亡くなった「鉄人」衣笠祥雄(広島)の引退試合がオープン戦として行われている。

 これに対し、名門、巨人はオープン戦での引退試合というものはあの長嶋茂雄、王でさえ行っていない。長嶋の引退は1974年。オールドファンにお馴染みの「巨人軍は永久に不滅です」のセリフが発せられたのは、公式戦最終のダブルヘッダーのことであり、引退後すぐに監督となったこともあってか、まだ「10年制度」が存在したにもかかわらず、長嶋はオープン戦での引退試合は行わなかった。長嶋引退の翌春、巨人がオープン戦で実施したのは、長嶋と入れ替わりで監督を退いた55歳の川上哲治の引退試合だった。

 王の方は、引退を決意したのがシーズン終了後とあって、公式戦での引退試合はなく、引退発表後も、当時行われていたセ・リーグ東西対抗の他、秋のオープン戦にも引き続き出場した。東西対抗では、同年に引退することになった中日の名手、高木守道とともに引退セレモニーを実施している(高木は翌春のオープン戦で引退試合を挙行)。また、この東西対抗でホームランを打った王は、秋のオープン戦の最終打席でも熊本・藤崎台球場のライトスタンドへホームランを打ち、「世界のホームラン王」らしい有終の美を飾っている。そして、その後のファン感謝デーで、同じく引退を決めたV9戦士、高田繁とともに引退セレモニーを行ってユニフォームを脱いだ。

 ONでも、オープン戦を引退試合としてあてがってもらえなかった巨人にあって、他の選手にそれが許されるわけはない。だからV9の投の主役、堀内恒夫の引退試合も、公式戦で行われた。本拠地最終戦となった勝ち試合の8回からマウンドに登った堀内は、2イニングを抑えてセーブを挙げただけでなく、8回裏に回ってきた現役最終打席ではホームランも放っている。

 この頃から、徐々に引退試合は公式戦に舞台を移すようになり、1984年に引退した西武の黄金時代の礎を築いた田淵幸一に至っては、古巣・甲子園のほど近くにあった西宮球場でのビジター試合が引退試合となった。優勝を決めてた対戦相手の阪急は、故障明けのエース、山田久志をマウンドに挙げ、広岡監督も田淵にマスクをかぶらせるなどして稀代のスラッガー捕手の花道を盛り上げた。

 1986年限りで引退した田淵の盟友、「ミスター赤ヘル」、山本浩二もチームが日本シリーズに出場したこともあり、引退試合は公式戦では行われなかった。彼もまた、王と同じく、シーズンオフに行われた日米野球、そしてセ・リーグ東西対抗戦に出場して全国のファンに最後の顔見せを行ったが、オープン戦での引退試合は行っていない。

 この時代も、もちろん、引退を決めていた選手が消化試合に顔見せのため代打などで出場し、ファンに最後の挨拶をするということはあったが、それをわざわざ引退試合などと呼ぶことはなかった。昭和の昔、引退試合とは、名球会入りを果たしたような選手だけの特権であったのだ。

「論功行賞」から「収益のツール」へ

 それが平成になって変わってきたのはやはり時代なのだろう。半ば親会社の税金対策のように運営させていたプロ野球も次第にスポーツビジネスとしての自立を求められるようになり、選手の報酬も高騰の一途を辿る中、オープン戦もまた球団収益の重要なツールと考えられるようになった現在、1試合の収益を功労者とは言え一選手に丸々手渡すようなことはできなくなった。むしろ、球団は、引退試合を消化試合を減らす収益のツールに利用するようになってきた。

 オリックス草創期のエース、現在は名伯楽として各チームで投手を鍛えている佐藤義則の引退というから平成も半ばに差し掛かってきた頃のことである。1998年までの22年長きに渡ってチームの支柱を担ってきたこの大投手にも引退の時が来た。通算165勝、最多勝、最優秀防御率それぞれ1回、20勝投手にもなったこの大投手だが、昭和の感覚では引退試合を実施するまでの投手かは難しいところだ。それでもオリックス球団は、長年の功績をたたえ、シーズン終盤の消化試合を彼の引退試合に当て、このシーズン初めての先発マウンドに彼を送り出した。この試合、オリックスは5点を先制したが、佐藤は勝利投手の権利を得る5回を投げることなく、マウンドを降りている。

 この頃から次第に、「真剣勝負」の場である公式戦に、「引退」というセレモニーが持ち込まれるようになった。時には、引退するベテラン投手に華を持たせるため、明らかな空振りをする打者も見受けられるようになり、目の肥えたファンからは苦言を呈せられるようにもなってきた。それでも引退試合の感動はファンの大多数の支持を得たようで、消化試合のスタンドが埋まるようになると、過去の実績や球団に対する貢献などは、いつのまにか二の次になり、現在のような「引退試合百花繚乱」状態になったのだろう。

 昨年シーズン途中の8月、プロ野球実行委員会は一軍の出場登録に関して、「引退選手特例」を設ける旨を決定した。ベンチ入りの25人は変えないものの、シーズン末で引退が決まっている選手を1試合に限り、一軍登録枠の28人に加えることができるというもので、各球団は選手を入れ替えることなく、もはや戦力とはみなせなくなった選手を一軍に上げることができるというものだ。要するに、公式戦での引退試合にコミッショナーがお墨付きを与えたのだ。

 個人的な好みはともかく、私はこの状況を否定的には考えない。プロ野球が興行である以上、順位が半ば決まった後の退屈さを打ち消し、ファンをスタンドに呼び込めるなら、これもアリだろう。そのことは、冒頭の小谷野の引退シーンが物語っている。試合後、セレモニーに現れた小谷野やオリックスナインは、ユニフォームの代わりにTシャツを纏っていた。彼らが身につけていた引退記念Tシャツは、セレモニー終了後、飛ぶように売れたことだろう。かつて、球団から功労者である選手に論功行賞として与えられた引退試合は、今や球団にとって新たな収益のツールと化しているのだ。しかし、「引退興行」をやるならやるで、あくまでプロ野球、わざとらしい三振などせず、プロ野球の勝負に値するようなプレーを見てみたい。昔の選手はその辺はやはりプロで、前述の谷沢は引退試合で、阪急のエースとなりつつあった佐藤義則が投じた「絶妙の」ストレートを見事スタンドインさせている。

 さすがに、今月4日の甲子園での阪神・ヤクルト戦で、「戦力外」になった西岡剛が、チームがクライマックスシリーズ出場を争っている中、代打で登場し、翌日には登録抹消されるような例(西岡と契約する球団がなければ、この試合が彼にとっての「引退試合」となる)や、先月28日に巨人が今シーズンを前に解雇した村田修一を呼び寄せて「引退セレモニー」を行ったような例には首をかしげてしまうが、集客できそうな選手の引退を公式戦を使ってセレモニー化することは今後も行われていくだろう。しかし、それに多くのファンが同調し、スタンドに集まるならば、それも可ということである。

 今年で平成も終わる。「引退試合バブル」が次の時代にはどうなっていくのか、一ファンとして見守っていきたい。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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