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アジア大会2018からメガスポーツイベントを考える

阿佐智ベースボールジャーナリスト
メイン会場のGBKの聖火台とジャカルタ新市街の摩天楼

 すでに多くのコラムを発表しているように、私は先月末、インドネシア・ジャカルタで行われていたアジア大会を取材した。主目的はもちろん野球だったのだが、総合スポーツ大会を本格的に取材するのは初めての経験で、他競技も見ることができ、それも大きな収穫だった。この大会は、「アジアのオリンピック」と呼ばれるように、様々な競技がひとつの町(今回はジャカルタとパレンバンの2都市での開催だったが)で行われるという点で、2年後の東京を想像させられることも多かった(もちろん両大会の規模は大きく違うが)。

総合スポーツ大会では開催地で知名度の低い競技も行われる

 野球の第2会場、ラワマングンでは、メディアルームで日本人のグループに出会った。日本がらみの試合でもなかったのにどうしたことだろうと思いながらも挨拶をすると、8年後の次々回大会を開く愛知県のスタッフだった。この大会は4年後は中国の杭州、そして8年後には名古屋とその周辺で開かれるらしい。彼らはその事前視察に来たと言う。たしかにスポーツイベントを開くと言っても、これだけ規模が大きくなると、事前の準備はこれくらい早くからせねばならないのだろう。

 例えば、競技場やスタッフについて考えても、アジア大会の競技には開催国で普段なじみのないようなものも多い。野球などは我々日本人にとってはなじみの競技だが、インドネシア人では知名度は低い。この大会では、取材陣は基本的に指定されたエリア以外の席につくことは禁止されていたのだが、第2球場のラワマングンのメディアエリアなどは席につくと、肝心のホームベースあたりが手すりによって視界が遮られる有様だった。この席を作るときの担当者が野球について無知だったのは明白だろう。

ラワマングン野球場のメディア席からの風景。柵が視界を遮っている
ラワマングン野球場のメディア席からの風景。柵が視界を遮っている

 バットボーイなどの球場のスタッフは、ほとんどが野球またはソフトボールの競技者で、見た限りでは、試合進行をしっかりサポートしていたし、彼らボランティアにとっても、アジア最高峰のプレーを見ることができたのは貴重な経験になったに違いない。

野球・メイン球場のGBKのボールボーイ。自ら野球をプレーしているこの少年は、各試合後は選手にサインをねだっていた
野球・メイン球場のGBKのボールボーイ。自ら野球をプレーしているこの少年は、各試合後は選手にサインをねだっていた

 この球場の隣で行われていた自転車競技にも顔を出したが、正直私にはルールがさっぱりわからなかった。室内競技ということもあってか、観客席は地元インドネシア人で埋まっていたが、彼ら全員が様々なかたちのレースのあるこの競技のルールについて知っていたとも思えない。ただ、大きく傾いたバンクを自転車が疾走する様は誰にとっても見ごたえがあるし、私には理解できなかったが、レース中にはインドネシア語で実況アナウンスが流れていたこともあり、競技は大いに盛り上がっていた。

自転車競技会場には、アイドルグループJKT48もやってきてレース間の休憩時間を盛り上げていた
自転車競技会場には、アイドルグループJKT48もやってきてレース間の休憩時間を盛り上げていた

 東京五輪や、愛知アジア大会でも知名度の低い競技に関しては、競技場のレイアウト、スタッフの配置、競技ルールの観客への周知など事前にやるべきことは山積みだと思われる。

フェロドロームで行われた自転車競技
フェロドロームで行われた自転車競技

アジア諸民族の祭典としてのアジア大会

アジア大会メイン会場のGBKで開催されていたアジアンフェスタ
アジア大会メイン会場のGBKで開催されていたアジアンフェスタ

 今、東南アジア各国は経済成長の真っただ中にある。都市は市域を拡大し、拡大した新市街には高層ビルがどんどん建っていく。

 今回、ジャカルタを歩いて感じたのは、その急成長のパワーだ。アジア大会はその象徴と言っていいイベントだった。各会場や町中で見た人々の表情には、活気がみなぎり、かつての高度成長期には日本にもこういう空気が流れていたのだろうと思わずにいられなかった。ジャカルタっ子たちは、わが町で行われたビッグイベントに酔っているようにも思えた。

アジアンフェスタには日本のラーメンも出店されていた
アジアンフェスタには日本のラーメンも出店されていた

 今回のアジア大会は、単なるスポーツイベントにはとどまらなかった。メイン会場ゲロラ・ブン・カルノ(GBK)では、各競技のほか、「アジアンフェスタ」と呼ばれるイベントも行われていた。広い会場の各所に、アジア各国の料理や地元インドネシアの特産品の仮設店舗が並び、中には、ジャカルタの下町を再現したような屋台街もあった。また協賛各社のプロモーションを兼ねたイベントブースが設けられ、そこでは例えば各競技を題材にしたゲームなどが体験でき、連日、競技以上の賑わいをみせていた。その風景は博覧会のようでもあった。

スポーツを題材にしたゲームも出展されていた
スポーツを題材にしたゲームも出展されていた

 高価な競技の観覧チケットがなくても、このアジアンフェスタのスペースには入場可能で、メイン競技場前に建てられた聖火台の下、大ビジョンで主要競技の様子も見ることができるので、アジア大会の雰囲気を堪能できる。市民は週末ともなると、GBKに押し寄せ、会場メインゲート前にある公式グッズを扱うスーベニアショップには、数百メートルにわたる行列ができていた。しかし、強烈な日差しに照らされながらも、人々の顔は喜びにあふれていた。この空間を歩くだけでも、経済成長を続けるこの国の人々にとってこの大会が、夢と希望の象徴になっていることを実感できた。

アクセスという大きな問題

 今大会は当初、ベトナムの首都ハノイで開催される予定であったのを、ベトナムが2014年に開催を返上し、これをインドネシアが肩代わりしたという経緯をもつ。したがって、大会準備もある程度急ごしらえであったことにはやむを得ないものがあるが、とくにインフラの整備については、間に合わなかった感が強い。

 途上国の大都市のご多分に漏れず、ジャカルタの渋滞はすさまじい。人口2億6000万を誇るこの国にあって、首都のあるジャワ島には人口がとくに集中し、この島ではどこに行っても人だらけの感がある。

 大会当局は、メイン会場のGBKから各会場、国際空港、そしてジャカルタの中心、ハルモニ地区まで無料のシャトルバスを走らせていたが、日中は渋滞のため、ダイヤはあってないようなものだった。GBKの周囲を巡るシャトルさえ、日中はほとんど動かない状態だった。

 

メイン会場周辺を走っていたシャトル
メイン会場周辺を走っていたシャトル

 この町にあって、ジャボタベックと呼ばれる電車網とトランスジャカルタという専用レーンを走るバスがかろうじて頼りになる公共の交通機関なのだが(但し電車の駅からGBKへはシャトルバスに乗り継がねばならない)、チケットホルダーやパス所持者はこれらの乗車は無料とするなど出来なかったのかとは思った。実際、オリンピックの場合は、アテネ、北京ともチケットホルダーはバス、地下鉄とも、ほとんどの路線が無料で利用できた。これには通常の利用者との兼ね合いも問題になるのであろうが、2020年の東京五輪や2026年の愛知アジア大会はどうするのか、少し考えさせられた。

 ちなみに、ジャカルタも現在MRTと称する地下鉄を建設中である。メイン会場のGBKの前を通り、旧市街の玄関口、コタ鉄道駅と新市街の南の中心ブロックMを結ぶこの路線が開通していれば、この大会に伴う大渋滞は多少なりとも回避できたのであろうが、もともと来年開通予定だったのでこれはある程度仕方がないだろう。

 しかし、メイン会場から6キロほど東にある野球と自転車競技の会場となったラワマングンへ延びるLRTと呼ばれる小型の高架鉄道は、本大会に合わせて開通する予定であったのが、結局間に合わなかった。自転車会場のフェロドローム前に完成間近の高架駅があるのを見るにつけて、どうにかならなかったのかという思いはどうしても出てきてしまう。

ラワマングンまでのLRTは結局大会には開通しなかった
ラワマングンまでのLRTは結局大会には開通しなかった

 このようなことは他人事ではない。東京五輪のメインスタジアムに予定されている新国立競技場も設計段階のゴタゴタから建設工事は遅れ気味である。日本の場合、逆にとにかく間に合わせようと現場にしわ寄せがいき、過労死騒ぎも起こっている。メガスポーツイベントとインフラの整備はある種表裏一体のものであるが、主催当局には、しっかりした計画が必要であることは肝に銘じてほしい。

準決勝でさえ不入りだったサッカー。あまりにアクセスが悪すぎた
準決勝でさえ不入りだったサッカー。あまりにアクセスが悪すぎた

 また、サッカーについて、ある編集者からどうしてあんなに不入りだったのかと質問されたが、これにはアクセスも大いに関係しているのだろう。日本も出場した準決勝、決勝の会場、パサンカリ・スタジアムは、ジャカルタから60キロ南にある避暑地、ボゴールの郊外にある。自家用車をもたない一般客がここへ行こうと思えば、まずは電車でボゴールや競技場最寄りの駅まで行って、そこからバスなどに乗り換える必要があるのだが、公共の交通機関で行けば、ジャカルタから3時間近くかかってしまう。私は、準決勝を観に行ったが、往路は自力で電車・バスで向かい、帰りは、メディア用のバスでGBKまで帰った。21時半前にゲームが終わり、22時発予定のバスに乗り込んだが、1台しかないメディア用のバスは、記者会見の報道陣を待つなどで、出発が遅れ、結局出発したのは23時。ハイウェイを通ってGBKについたときには日付が変わりかけていた。

 主会場GBKへの極端な競技の集中により、市内の渋滞に拍車をかける一方、極端なほど広い範囲への各競技会場の分散により、サブ会場のいくつかは非常にアクセスが悪かった。大都市でメガ・スポーツベントを開くとなると浮上する問題が顕著に現れたのが、今回のジャカルタではなかったか。

若者が未来を感じるスポーツの祭典

下町でも見られたアジア大会の横断幕。アジア大会にジャカルタ中がわいた
下町でも見られたアジア大会の横断幕。アジア大会にジャカルタ中がわいた

 最後にこの大会の取材を通じて一番印象に残ったことを述べておきたい。それはインドネシアという国のみなぎる若さだ。

 取材期間中、私は旧市街の端にある下町の一角に宿をとっていた。世界中の若者が集まるその安宿の受付を担当していたのは、可愛い顔した明るい女の子だった。英語が堪能な彼女は世界中からの旅人たちとの会話を心より楽しみ、私にもいろいろ世話を焼いてくれた。

 野球競技決勝の取材を終え、すし詰めのバスに乗り、私はこの下町に帰ってき、屋台で一杯やってから宿に戻ったのだが、その女の子が大きな声を上げて狂喜乱舞している。

 どうしたことか思っていると、彼女が目を輝かせながら私に言った。

「見てこれ。私、今アスリートに会ってきたの!」

 この下町をふらりと訪れたアスリートとたまたま出くわし、しばし会話を楽しんでいたらしい。すでに競技を終えた彼は、記念にと、自分が競技場に入るのに使っていたIDカードを彼女にプレゼントしたのだ。彼女は内戦中のイエメンからやってきたというそのアスリートのIDを私に見せて身を輝かせていた。彼女にとってこのアジア大会は一生の思い出となったことだろう。

 その1時間ほど前のGBK野球場。表彰式も終わり、ひとしきり原稿を書いた私は、もう一度だけあの死闘が行われたフィールドを目に焼き付けようとスタンドに上がった。照明灯はまだ煌々とフィールドを照らしており、その中心にはボランティアの若者たちが列を作っていた。最後に記念撮影をしようというのだ。私もカメラを向けると、フィールドから大きな歓声が上がった。写真を撮った後、そのフィールドに向かって叫んだ。

「テリマカシ(ありがとう)」

 喜びと充実感に満ち溢れた返事が一斉に帰ってきた。

「サマサマ!(どういたしまして)」

 彼ら彼女らは、これからこのインドネシアの将来を背負って立つだろう。日本社会がもはや失ってしまった貧しさから豊かさへのベクトルの中の活気というものを、私はこの大会の取材の最後にまざまざと見せられたような気がした。

 2年後、我々はそのようなみなぎる若さを世界中の人々に見せることができるのだろうか。

GBK野球場のボランティアスタッフたち
GBK野球場のボランティアスタッフたち

(写真は全て筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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