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続・サッカー大国ブラジルから来た野球『還流移民』たち:金伏ウーゴ(栃木ゴールデンブレーブス)・後編

阿佐智ベースボールジャーナリスト
金伏ウーゴも参加したWBC2013年大会に臨むブラジル代表チーム(写真:アフロスポーツ)

来日により感じたブラジル人アイデンティティ

ヤクルト、巨人でプレーした金伏ウーゴは、現在も独立リーグでプレーしている(筆者撮影)
ヤクルト、巨人でプレーした金伏ウーゴは、現在も独立リーグでプレーしている(筆者撮影)

 現在、ブラジル日系人社会は3世、4世が中心の時代に入っている。150万人とも言われる日系人のうち、日常会話を日本語で行うのは20万人ほどだという。その多くが1世、2世を中心とする高齢者であることは想像に難くなく、現役世代の大多数は、もはやポルトガル語が母語となっている。金伏家もご多分に漏れず、家庭での会話はポルトガル語で行われていたという。ウーゴは来日するまで、日本語は全く話せなかった。

「学校で習うこともなかったですから。ちょっとだけ、日本語の勉強をしたんですけど、全然覚えられなくて」

 そんなウーゴにとって、父祖の地、日本は異国でしかなかった。言葉もわからないまま異国に放り出された15歳の少年が、どうなるのかには想像もいらない。それまで経験したことのない上下関係の厳しい日本の部活という社会。寮生活では下級生が当たり前のようにこなす雑用も、はじめはなにがなんだかわからなかった。周囲を見ながら空気を察し、こなすのがやっとだった。ウーゴを強烈なホームシックが襲った。

 周囲の言うことがようやくわかったのは、来日して半年ほど過ぎた頃だった。何かと閉鎖性の強い日本社会、ましてや運動部はある種の村社会である。すんなりと溶け込むことに失敗すれば、いじめという仕打ちが待っていることも多い。ウーゴもその洗礼を受けたと言う。

「そりゃ、いじめもありました。最初はもちろん、何を言っているのかはわからなかったけれど、雰囲気でわかるんです。ひとりだったら多分すぐに辞めていたと思います」

 ブラジルから日本へ旅立った野球少年の置かれる環境を、送り出す側のアカデミーはわかっていたのか、ウーゴとともにもうひとりの少年を佐野日大高校に送り込んだ。その少年は、日系人ではない、「ブラジル人」であったのだが、ウーゴにとっては、彼こそが「仲間」で、心の支えになった。その彼は、大学も同じ白鴎大に進んだが、結婚を機に大学を中退し、現在に至るまで、デカセギ労働者として日本で暮らしているという。

 ウーゴにとって高校3年間は、野球どころではなかったのだろう。肘の故障などもあって、公式戦のベンチ入りメンバーに入ることはほとんどないまま高校3年間を終える。この高校時代、ウーゴは年一回の里帰りの度に日本に戻るのが嫌になった。それでも、両親の期待を思うと、ブラジルに残りたいとは言えなかった。両親がなぜ、あの時ウーゴの日本行きを切望していたのか、それはいまだにわからない。ただ、野球が終わればブラジルに戻ってきて欲しいと思っていることは今でも感じている。

「僕もそうです。やっぱり自分の国はブラジルですから。将来的には、両親と一緒に暮らしたいです」

 今も、ウーゴは正月にはブラジルに帰省する。さすがに10代の頃と違い、日本に戻る時にぐずることはなくなったが、今もブラジルが母国であることには変わりない。

 全くと言っていいほど実績を残すことのできなかった高校時代。むろんドラフトにかかることもなく、社会人野球ででもプレーできればいいなと思っていたが、潜在能力を買ってくれた地元栃木の白鴎大学がウーゴを引き受けてくれた。この大学もまた、多くのブラジル人学生の野球留学を受け入れていた。ウーゴが野球部の門を叩いた時、最上級生には、のちヤクルトのチームメイトとなり、ともにブラジル代表を支えるラファエル・フェルナンデスが在籍していた。

「中学生の頃、ブラジルにいた時から彼のことは知っていましたから。高校時代も電話で連絡はとっていました。お互い、『なんか、厳しいな』とか、そういう話をしていました」

 ブラジルの同胞が多かったこともあるのだろう。ウーゴの才能は大学で開花する。リーグ戦での初勝利は4年の春と遅かったが、最終の秋シーズンのチームのリーグ優勝もあり、ブラジルと縁の深いヤクルトが育成ドラフトの2巡目で指名してくれた。ルーキーイヤーの2012年夏には支配下登録され、一軍デビューも飾ったが、結局、プロ生活は、トライアウトを経て育成入団した巨人での2016年シーズンを含め、5年で2試合の一軍登板に終わった。それでもウーゴは、現役続行を決め、昨シーズンからは独立リーグでプレーしている。

 日本に来たのはあくまで野球をするためだとウーゴは言う。野球留学で来日した者の中には、プレーを諦めた後も、デカセギ労働者として日本で働く者もいる。しかし、彼は現役を終えた後は、ブラジルに帰るつもりだ。

「日本で働くというより、学びたいっていうのはありますけど。もう両親も歳ですし」

とは言え、ブラジルを離れてすでに14年。日本での生活が、母国で過ごした時間に迫るようになってきた今、さすがにホームシックはもうない。

 現在生活の拠点にし、母校もある小山市は、他の北関東の地方都市と製造業が盛んだ。このような町には、デカセギ外国人が多く集まる。5000人を超すこの町の外国人の大多数はやはりブラジル人である。当然ここにもブラジル人コミュニティがあるが、そこへわざわざ足を運ぶこともないという。夢を日本語でみることさえ多々あるというウーゴにとって、母語・ポルトガル語も少しずつ遠い存在になりつつある。

「今、代表チームでも一緒だったルーカス(ホジョ、現・栃木ゴールデンブレーブス)と住んでいるんですけど、会話につまることもあるんです。もう、こういうインタビューなんかだとポルトガル語ではできないですね。ほんとに難しいんですよ。聞かれていることはわかるんですけど、ちゃんとした言葉とか、出てこなくなりましたね。ポルトガル語でどう言うんだっけなっていうのはありますよ。結局、大人になってからは日本で生活していましたから」

 それでも、自身に染み付いたブラジル人意識は変わることはない。私が、ある町のブラジリアンタウンのスーパーで買い物をした際、レジの係が、前に並んでいた日系人にはポルトガル語で声をかけていたのに、私を前にすると、突然日本語に切り替えたという話をすると、少し得意げになって口を開いた。

「やっぱりわかりますよ。見かけは完全に日本人でも日系人は日系人なんです。なんて言うかなあ、日系人の服なんかがあるんです。ブラジル人だって、身につけているものでわかるんです。これブラジル人しか使わないだろって(笑)。この間、町を歩いていたら、日系人じゃないかっていう人がいたんで、声をかけてみるとやっぱりブラジル人でした。雰囲気でわかるんです」

野球人生のハイライト、WBC

 いまだ独立リーグでプレーしているので、現役選手ではあるが、ウーゴは自分の野球生活がそれほど長くないことを悟っている。日本のプロ野球、NPBの一軍を経験した彼が、それ以上の場でプレーすることはもうないだろう。そんな彼の野球人生を振り返るのはまだ早いのだが、その最大のハイライトと言っていいのが、WBCだ。2012年秋の予選で大番狂わせを演じたブラジル代表のメンバーに当時ヤクルトに在籍していた彼の名も当然のごとく入っていた。出番は結局なかったものの、母国を背負って戦う興奮の中で、改めてウーゴは自身のブラジリアンとしてのアイデンティティを確認した。

「あの予選は、正直勝てるとは思ってませんでしたけど、(在籍した)他のどのチームより自分のチームって感じがしました」

 初出場のブラジルに対した国は、それまでの2大会に出場していたパナマ、そして同じく初出場のコロンビア、ニカラグアであった。いずれの国もメジャーリーガーを輩出し、国内にプロリーグをもつ強豪と言って良かった。大方の予想はホスト国のパナマが勝ち抜けるというもので、それをコロンビア、ニカラグアがどう覆すかが見どころと思われていた。ブラジルが頭数合わせで参加したことを疑う声はなかった。

 しかし、ブラジルには他のチームにはない結束力があった。マイナーな日系人スポーツとしての野球ではあったが、競技人口が少ない分、メンバーのほとんどは幼い頃からの顔なじみであった。そして、移民受け入れ国から移民送出国となったという事情は、国外に移住した者ほどブラジルに対する思い入れが強いという母国に対する忠誠心の強さとなって現れた。ブラジルは誰もが予想しなかった3連勝で、本戦出場を決めた。

 この予選での代表チームのリーダーは、今やクリーブランド・インディアンズの正捕手となった「ブラジリアン・ボンバー」こと、ヤン・ゴームズ。この年、初昇格し、史上初のブラジル人メジャーリーガーとなった男だった。ウーゴの2歳年上のこの男は、12歳の時に故郷サンパウロを離れ、家族とともにアメリカに移住した。翌年日本で行われた本戦には、トレード直後という事情もあり、彼は参加しなかったが、日系人に野球の手ほどきを受け、ウーゴと同じくヤクルトアカデミーで育った「ブラジル人」、アンドレ・リエンゾは、メジャーキャンプをキャンセルして福岡ヤフオク!ドームのマウンドに立った。リエンゾは、本戦終了後にシカゴ・ホワイトソックスに合流、この年メジャー初昇格を果たし、ゴームズとのブラジル人対決も実現させている。ふたりは予選後、チームメイトを前にこう言ったという。

「本当を言えば、メジャーよりチーム・ブラジルでプレーしたい」

 福岡での本戦第1ラウンドは、結局3連敗に終わったが、初戦の日本戦では、試合終盤までリードを保ち、予選に続くジャイアントキリングを期待させた。予選の時は、勝つことを想定できなかったウーゴも、肌の色、人種、エスニシティを越え、ブラジルの旗のもとに集まったチームを見て、侍ジャパン相手にも勝てると自信をもって試合に臨んだと言う。この本戦ではウーゴも、2度リリーフのマウンドに立ったが、チームを勝利に導くことはできなかった。

 ウーゴは、続く第4回大会予選にも代表チームのメンバーとして参加し、1試合だけだがマウンドに立った。しかし、日本に戻ると、待っていたのはNPB最後の所属球団となった巨人から契約解除の知らせだった。

 ウーゴは今なお現役を続けている。東京五輪の予選も目前に迫っている。五輪の翌年には第5回目となるWBCが行われる。前回は本戦出場を逃したブラジルは、五輪の年には予選に出場することになる。この時、ウーゴは31歳。年齢的にはまだまだ働ける。その話を向けたが、ウーゴは笑いながら話をけむに巻いた。

「どうですかね。出たい気持ちはありますけど、若い選手が出てきてますし」

 生まれてこのかた野球しかやったことないと笑うウーゴ。野球が自分をかたち作っているとまで言う。金伏ウーゴは、父祖の地、日本から持ち込まれた野球によって母国ブラジルへのアイデンティティを確かに確認している。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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