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開場30年を迎えた「元祖・ボールパーク」ほっともっとフィールド神戸

阿佐智ベースボールジャーナリスト
1988年完成の神戸総合運動公園野球場

 先月、北海道日本ハムファイターズの札幌ドームからの移転先が決まった。近郊の北広島市に「ボールパーク」を造るのだという。もともと「ボールパーク」とは野球場の別称であるので、今あるどこの野球場も本来「ボールパーク」と言っていいはずなのだが、言葉遊びの好きな日本人は、この言葉に独自の解釈を込めているようだ。現在盛んに使われているこの言葉には、単なる野球場ではないという意味が込められているのだろう。昨今使われている「ボールパーク」の語には、1.閉塞感のあるドームあってはいけない、2.もちろん人工芝など論外、3.内野にも芝生が張られている、4.左右不均等なちょっとアクセントのある造り、5.単に野球を見るだけでなく観戦しながら食事のできるレストランなどのエンタテインメント性を兼ね備えている、という条件が含まれているようだ。そういう観点から見ると、現在、多くのファンが「ボールパーク」と聞いて思い浮かべるのは、広島のマツダスタジアムということに落ち着くのかもしれない。

 しかし、それ以前にも「ボールパーク」の名にふさわしい球場はあった。そして今も存在する。その「元祖・ボールバーク」と言うべき存在のスタジアムが、神戸の「ほっともっとフィールド」である。

築30年を迎えた今シーズンもほっともっとフィールド神戸は、オリックスを迎え入れている。
築30年を迎えた今シーズンもほっともっとフィールド神戸は、オリックスを迎え入れている。

新しい時代の幕開けを告げた昭和最後の「スタジアム」

 正式名称「神戸総合運動公園野球場」が完成したのは1988年。年号でいうと昭和63年だ。翌昭和64年が8日で終わってしまったことを考えると、実質、昭和最後の年である。バブル真っ盛りを象徴するように、この年、大型建造物が次々と完成している。3月には青函トンネルが、翌月には瀬戸大橋が開通し、4島が「陸続き」になった。野球界では、日本初の屋根付き球場、東京ドームがこけら落としを迎えている。ドームに「ビッグ・エッグ」という愛称がついたように(これはほとんど定着しなかったが)、同時期に開場した神戸の球場には「グリーンスタジアム」という通称がつけられた。

 神戸港沖合の埋め立て地を造るために山を削ってできた郊外の造成地に、1985年に行われたユニバーシアードのためにつくられた運動公園の最後の仕上げとしてできたこの野球場は、計画時点から新しい時代の到来を感じさせた。当時日本にはほとんどなかった、国際規格の広さ(当時の日本の野球場は、両翼97.5メートル、中堅122メートルという公認野球規則で定められた規格を、プロ野球の本拠地でさえ満たしていなかった)を満たしたフィールドは、完成後もしばらく東京ドームのそれを上回り日本一の面積を誇った。周囲を緑に囲まれた左右均等のスマートなシンメトリックなスタンドのフォルム、広々とした外野フィールドに敷き詰められた青々とした芝生、そして多くの観客の視界をさまたげない低いフェンスは、それまでの日本の「野球場」とは全く別の空間を醸し出した。当時のプロ野球の本拠地球場の多くが、自由席は長いベンチを並べただけであったのにもかかわらず、この球場の内野スタンドには二階席にまで個別のシートが並んでいた(残念ながら外野スタンドはしばらくの間、長椅子さえないコンクリートのひな壇があるだけだったが)。なんと言っても、内野スタンド二階席中央のさらに上に設置された、試合を見ながら観戦できるというレストランは、ビールや食べ物を持ち込んで観戦するというそれまでの観戦スタイルから、フード、グッズの購入までを含めた観戦のパッケージ化という現在の観戦スタイルの始まりを告げるものだった。

複雑な球団史を逆手にとって、現在では復刻ユニフォームでのイベントを開催している。
複雑な球団史を逆手にとって、現在では復刻ユニフォームでのイベントを開催している。

 

 こけら落としは、神戸のある兵庫県をフランチャイズとしていた阪神タイガースと今はなき阪急ブレーブスのオープン戦。阪急はこの年近鉄ともこの球場でオープン戦を行っているが、のち阪急を買収したオリックスがこの球場に本拠を移し、近鉄を吸収合併したのを機に、ここから去っていったのは何とも皮肉な話である。

イチローの作ったボールパーク

 アメリカの野球ファンは、ヤンキースタジアムを「ルースの建てた家」と呼ぶ。元祖二刀流の「野球王」が打者としてボストンから移籍した翌年に建てられたこの球場は右翼が狭く、左打者のベーブ・ルースがホームランを量産したためついた異称だが、「グリーンスタジアム神戸」は、さしずめ「イチローの作ったボールパーク」だ。

 グリーンスタジアムが開場した1988年秋、阪急ブレーブスはオリエントリース(現オリックス)に譲渡される。新球団は、引き続きブレーブスの名と、本拠地・西宮球場を使うことになったが、ホームゲームの内、同じ年に身売りされた新球団・福岡ダイエー・ホークス戦は、ダイエー本社の本拠地が神戸ということもあって、全てグリーンスタジアムで開催することにした(実際は、雨天中止分1試合は西宮開催)。そして、グリーンスタジアムで当時の採算ラインとされていた1試合1万人の観客動員の目途がついたと判断したオリックス球団は、1991年、神戸にフランチャイズを移し、チーム名も港町・神戸を連想させる「ブルーウェーブ」と改めた。この年秋のドラフトで4位指名されて入団したのが、鈴木一朗、のちのイチローである。

 1994年、彼が210安打でシーズン最多安打新記録(当時)を打ち立てブレークした頃には、「阪急色」はすでに一掃されていた。勝てども勝てどもスタンドに閑古鳥が鳴いていた「灰色の球団」は、球界の旧弊などどこ吹く風でヒットを量産するヒップホップを好む若きスターの明るい色に染められていった。阪神淡路大震災の起こった1995年、「がんばろう神戸」の合言葉の下、11年ぶりのリーグ優勝に突き進むチームを一目見ようと神戸っ子は、グリーンスタジアムに押し寄せた。この年は、日本シリーズで敗北したが、翌年もブルーウェーブはペナントを奪取。連覇の瞬間、地元ファンで札止めとなった球場の中心にはサヨナラ2塁打を放ったイチローがいた。長嶋巨人相手の日本シリーズも、ブルーウェーブは、地元ファンに歓喜の瞬間を見せるべく、4勝1敗の圧勝で勝負を決めた。

 この頃、神戸でのオリックスの人気は、暗黒時代真っただ中の名門球団・阪神を凌ぐほどだった。オリックス球団は、阪急時代からの地道なファンサービスを継続。さらに、メジャーリーグブームに乗るべく、グリーンスタジアムの「ボールパーク化」を推し進める。

 2000年には長らく日本の野球場ではなされなくなっていた内野フィールドの芝生化を実施。青々としたフィールドはファンに「本場の野球場」を思い起こさせた。このほか、球場内外で様々なイベントを行うなど、球場を単に野球を見る場ではなく、休日を一日楽しめるエンタテイメント空間に変えた。

現在ではどの球団にもあるマスコットも、オリックスの前身である阪急が始めたものである。
現在ではどの球団にもあるマスコットも、オリックスの前身である阪急が始めたものである。

主を失い「空き家」となったボールパーク

 しかし、これも長くは続かなった。内野に芝が敷かれたそのシーズンオフ、イチローはメジャーに旅立った。アイコンを失ったオリックスは、その後低迷。新たなスターも生まれず、スタンドには閑古鳥が戻ってきた。オリックスの低迷と時を同じくして、阪神がペナントの主役を演じるようになった。関西のプロ野球は、古豪の一極集中状態になった。

 その中、2004年、同じ関西圏にフランチャイズを置く近鉄が球団経営から手を引くことを決めた。関西圏の中心、大阪進出を目論むオリックスは、近鉄からの合併の申し出を受け入れ、これをきっかけに「球団再編騒動」が巻き起こる。結局、2リーグ制は維持されたものの、オリックスは、近鉄を吸収合併した上で、新たな本拠、大阪のファンに配慮したのだろう、愛称を「バファローズ」に変えた。当面は、神戸・大阪のダブルフランチャイズ制とし、主催試合を折半して行うことになったが、新しいチーム名は、球団の実質上の大阪移転を示していた。2007年、大阪ドーム(現京セラドーム大阪)は、オリックスグループによって買収され、チームも大阪に本格的に移転する。そして、昨年、ファーム施設・寮も神戸から大阪へ移転し、オリックスは神戸から去っていった。

 球団買収から、神戸への移転、そして合併に続く大阪への再移転については、批判も多い。しかし、プロ野球はビジネスである。今や1試合1万人の動員は当たり前、3万人を超える大入りも珍しくなくなり、ときには札止めも起こる現在の状況を見ると、オリックスの歴史は、プロ野球が大企業のオーナーの道楽から真のスポーツビジネスへの転換の歴史をそのまま映し出したものと言える。

 それでも、今もって神戸はオリックスにとっての「聖地」であり続ける。ネーミングライツにより度々名を変えた、「ほっともっとフィールド神戸」は、オリックス・バファローズの準本拠として、今年も13試合が予定されている。

 球界再編騒動の結果、交流戦が始まった後、セ・リーグのファンがこの球場を訪れることが多くなった。普段パ・リーグの球場に足を運ばないセ各球団のファンは、このボールバークに足を踏み入れる度、驚嘆の声を挙げた。開場と同時にスタンドに入ると、3塁側ビジター席のスタンドから驚きとため息の入り混じった声が響いた。

フィールドにせり出た観客席もこの球場が始まりである。
フィールドにせり出た観客席もこの球場が始まりである。

==元祖ボールパークを忘れない==

 東京ドームが開場して30周年、日本初のドーム球場も今や古い部類の球場となり、「ドーム球場」じたいが、旧時代の遺物とさえなりつつある。時代は、今、エンタテインメント性を兼ね備えたレジャー空間としての「ボールパーク」を求めていることは、2009年完成のマツダスタジアムや日本ハムの新球場が「ボールパーク」を前面に押し出していることからわかるだろう。

 東京ドームの前身である後楽園球場の寿命は50年、オリックスの前本拠地、西宮スタジアムのそれは65年だったが、アメリカメジャーリーグのここ20数年の趨勢をみると、集客施設としての野球場建設のサイクルはどんどん短くなっている。昨年、郊外に移転したアトランタ・ブレーブスの旧本拠地、ターナー・フィールドは、たった20年で野球場としての使命を終えた。それを考えると、東京ドームともども、ほっともっとフィールド神戸の寿命もそう長くないかもしれない。

 しかし、ここしばらくは、いまだこの球場はオリックスの「聖地」であり続ける。この球場ができた30年前の秋、阪急からオリックスに球団が譲渡された。その翌、1989(平成元)年にオリックス・ブレーブスは最初のシーズンを戦ったのだが、オリックス球団は、今年来年には周年イベントをするつもりはないという。周年イベントを行うなら、神戸に球団が移転し、ニックネームが「ブルーウェーブ」となって30年を迎える2021年らしい。

 3年後、イチローは47歳になっている。50歳まで現役を宣言するレジェンドだが、その時点でメジャーでプレーするのは難しいかもしれない。私の勝手な思いだが、「元祖ボールパーク」にホームカミングしたレジェンドの姿を是非とも見てみたい。その姿は、「オリックス・ブルーウェーブ」30周年になによりもふさわしいに違いないから。

チアダンスチームも「ボールパーク」には欠かせない要素となった。
チアダンスチームも「ボールパーク」には欠かせない要素となった。

(写真は全て筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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