ノルウェー民族楽器ハーディングフェーレ製作を現地で学ぶ日本人職人 両国の未来の懸け橋に
「ノルウェーに、ハーディングフェーレの製作を学んでいる日本人がいるみたいだよ。もう取材した?」。ここ数か月、多方面から聞いていた、噂の日本人にやっと会うことができた。
オスロから電車で2時間、南部にあるブー町。ヴァイオリン製作者の原圭佑さん(29)は、ハーディングフェーレの職人であるオッタール・コーサさんの下で働いていた。原さんは、ノルウェー・日本間で、初・そして唯一の日本人ハーディングフェーレ職人となる。
楽器の詳細については、別記事「伝統を超え、進化する民族楽器 北欧ノルウェーのハーディングフェーレとは?」を。
原さんは、高校2年生(17)の頃、ヴァイオリン製作の道に進もうと決めた。
「やりたいことがなくて、このままでは嫌だと思った。音楽がいいな、という漠然とした思いがあった。じゃあ、音楽が好きだったら、どんな仕事があるか?」と調べ始めた。
21歳で、2007年にイギリス留学。Newarkヴァイオリン製作学校に4年間通い、製作・修理修復を学ぶ。その後、研修でキプロスに3か月を過ごし、日本で4年間、楽器の修理の仕事をした。
ハーディングフェーレを知るきっかけとなったのは、弦楽器雑誌だったという。
「なんだこれは、という衝撃を受けた。調べたら、ノルウェーのものだった。日本でプレイヤーは少なからずいるが、メンテナンスできる人は日本にはいないということを知った。簡単な修理は日本でできるが、複雑なものは、現地に送らなければいけない。でも、送るということは、繊細な楽器にはストレス。それはとても不便だな、と思った」。
まだ気持ちに整理がつかなかった原さんは、2014年にノルウェーの地へと視察にきた。ノルウェーの景色を見て、地元のハルダンゲル博物館を訪問し、現地の人々と交流したことは、本人に大きな感動と衝撃を与えた。
誰に教わればいいのか探り始めたとき、複数の人からオッタール・コーサさんを推薦されたという。現在、原さんは、ハーディングフェーレの地として有名なブーという町で、コーサさんの元で仕事をしている。
ワーキングホリデーとして滞在しているのかと思ったが、文化交流のための特殊な滞在許可証を取得したという原さん。取得は大変だったそうだ。
コーサさんの自宅横にある仕事場の隣には、原さんが住む小さな小屋がある。ヴァイオリンの修理・修復の経験を生かして、週2日はコーサさんの仕事を手伝うという形で、お返しをしている。
仕事場には、アマチュアからプロが作った楽器まで、様々なものがくる。「楽器のことをわかっていないと、対応がしづらい」と原さんは語る。
「ヴァイオリン以上に、ハーディングフェーレでは、より臨機応変に対応しなければいけない。今では考えにくい、古い手法で作られた、アマチュアが製作した作りの荒い楽器も多くやってくる。そういう楽器は直すのが大変」。
「この世界は、思ったより奥が深く、ヴァイオリンの頭のままでは、いい音を出すことは難しいと気づいた」と話す。
コーサさんは、仕事場を共にする原さんとの時間を楽しんでいる。2人の関係は、「師匠と弟子」ではない。「修復作業など、僕が知らなかった技術を、圭佑から学ぶことも多い」と話す。
「圭佑のような生徒は、僕にとっても初めてなんだ。最初はどうなるかドキドキした。仕事場は、僕にとっては自宅のようなものだから。家族とも相談して、圭佑が暮らしやすい環境を整えた。圭佑はとても才能に溢れた職人だよ」。
原さんは、すでに最初の1本目の作品の作製を終え、現在2本目に取り掛かっている。1本目から、あえて複雑なパターンを選んだ。ストレスが大きく、今年の5月に完成させるまでに5か月かかったという。
ヴァイオリンの製作過程にはない、ハーディングフェーレの「ロージング」とよばれるデザインの下書きには、悪戦苦闘しているという。「動物を描くと、ひどいものができる」と、自分に厳しい評価を下す。
最後に、原さんのように、現地で修行したいと将来的に考える人に、アドバイスはあるかを聞いた。
「ヴァイオリン製作を学んでおいたほうがいい。ここにこれたのは、基礎があったから。作ったことがなければ、無理だったと思います。受け入れる人にとっても、メリットがないから」。
原さんは、いつか日本に戻った時、現地でハーディングフェーレを弾く人々の役に立ててればと思っている。
原さんのような腕を持つ職人は、今日本にはいない。数年後に、日本とノルウェーを結ぶ貴重な懸け橋となっているのだろう。
※この記事はノルウェーでの取材慣習に基づき作成されています。インタビューの書き起こし後、発言内容に誤りはないか、本人から確認をいただいています。一部修正が入っていますが、客観性は担保し執筆しています。