NY復興の象徴アイコン生み出した天才デザイナーとロゴ誕生秘話【追悼ミルトン・グレイザー】
ニューヨークを代表するアイコン(ロゴ)の産みの親であり、誰よりもこの街を愛していた男がこの世を去った。
世界的グラフィックデザイナー、ミルトン・グレイザー(Milton Glaser)。亡くなったのは、自身の誕生日である6月26日だった。腎不全を患っており死因は脳卒中、享年91歳。
彼が生前に生み出した作品は多岐にわたるが、一番の代表作は白地にポップな赤色のハートマークが入った「I(ハート)NY」(アイラブニューヨーク/アイハートニューヨーク)。誕生から40年以上にわたって人々に愛され続けているものだ。街角のポスター、雑誌、土産屋のマグカップやTシャツ、ベーカリーやスーパー、ビール・・・あちらこちらに彼の作品があふれている。日本でも土産ものや他都市のパロディ版などで目にしたことがあるかもしれない。
作者のミルトンは、デザインを通して映し出す「希望の光」をこの世に残した偉大な人物だった。
ミルトン・グレイザーの代表作
死去に際して、ニューヨークタイムズ紙は彼の功績をこのように讃え、軌跡を振り返った。「鮮やかな色調と外へと放出するエネルギーあふれるデザインで、1960〜70年代にかけてのビジュアルカルチャーに変化をもたらした偉大なデザイナーだった」。
「イラストレーター、グラフィックデザイナー、アートディレクターとして、70年間同じことをずっと繰り返し続けた人物」と伝えたのは、雑誌名のロゴを制作し自らが代表として創業に携わったニューヨーク誌。ミルトンの貫いた信念、生涯にわたって1つのことを継続し学び続けた素晴らしさを伝えた。
ミルトン・グレイザーの生い立ちと経歴
ミルトンは、ハンガリー出身のユダヤ系移民の両親のもと、1929年ニューヨークのブロンクス区で生まれた。父はドライクリーニングと洋服の仕立てをする店を経営し、母親は専業主婦だった。
少年時代、いとこが紙袋の脇に鳥の絵を描いて見せてくれたエピソードから鉛筆1本で人生を創造できることに目覚め、「自分はこれで生きていこうと決めた」という。
先述のニューヨークタイムズ紙には「ミルトンはプラットインスティテュート大学の入学試験に2度不合格になった」とある(天才と呼ばれる人でもこのような過去があるのは、若者にとって希望をもたらすエピソードではないだろうか)。パッケージデザイン会社でしばらく働いた後、クーパーユニオン大学に入学しサイエンス&アートを学んだ(後にこのパッケージデザイン会社退職時に彼の後任で入社した女性と結婚する)。在学中、同級生3人と共にグリニッチビレッジ地区のロフトを間借りし、デザイン会社を興した。
卒業後にヴォーグ誌のプロモーション部門で働き、アートを学ぶために奨学金を得てイタリアに留学。ニューヨークに戻ってからは再び同級生と会社を設立し、代表を務めた。現在のスタジオ、ミルトングレイザー社を設立したのは1974年のことだ。
「I(ハート)NY」ロゴ誕生秘話
そもそも「I(ハート)NY」は土産物のためにデザインされたものではない。
起業から3年の1977年、ミルトンのもとに、あるプロジェクトが舞い込んだ。70年代のニューヨークと言えば、世界でもっとも治安の悪い危険な街の代表格だった。きっかけは1975年のニューヨーク市財政危機。それを引き金に犯罪数が激増したのだ。州は都市のイメージを何とか立て直そうと躍起だった。財政難を克服するために旅行客を誘致する観光キャンペーンが立ち上げられた。そして、その販促ツールのロゴデザイナーとして白羽の矢が立ったのが、ミルトンだった。
ニューヨーク誌によると、ミルトンはある日、イエローキャブの後部座席に乗っていて、ふとアイデアを思いついたという。破れた封筒に赤いクレヨンで4つの文字を走り書きした。このデザインラフは、後にシンプルな文字列の中に鮮やかな赤色で丸みのある愛らしいハートを入れて仕上げられた。シンプルだからこそ、一度目にすると2度思考するような印象だ。そして自由の女神などと共にニューヨークを代表するイメージシンボルとして、長きにわたって人々に認識されるようになった。現在このラフは、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の常設コレクションに含まれている。
このロゴ誕生の背景には、ほかにも興味深いエピソードがある。
観光キャンペーンが短期展開のものであり、また愛する地元の町おこしの一環であることから、ミルトンはこの仕事をプロボノ(社会貢献などで支払いを要求しない形態)で請け負った。ザ・ニューヨーカー誌によると、今日(こんにち)「I(ハート)NY」が州にもたらすライセンス料は年間3000万ドル(約32億3000万円)にも上るが、ミルトンのもとには一銭も入っていないという。
またこのロゴは2001年の同時多発テロ以降、「希望の光」というメッセージ性を帯びてきた。世界貿易センターがテロ攻撃を受け崩壊した翌週発行のデイリーニュース紙では、表紙と裏表紙にミルトンによって作られた続編「I(ハート) NY MORE THAN EVER」(これまで以上にNYが大好き)が印刷され、街中にディストリビュートされた。
これをきっかけに苦難にあったニューヨークという街の復興と人々の団結の象徴として「I(ハート)NY」は認識されるようになった。マグカップやTシャツにプリントされ観光客に売られるようになったのはこれ以降だ。
当初は破れた封筒にさっと走り書きしたデザインが、その後40年以上にもわたって人々に愛され続けるものになろうとは!それを誰よりも驚いたのはミルトン自身だった。
先見の明があるブランディングの天才でもあった
筆者はミルトンに会ったことは一度もない。しかし、映像などを通したこれまでの彼の発言、そして近親者から直接聞いたエピソードを通して、ミルトンについてはこのような人物像が見えてくる。
- シンプリシティと直感の美学を誰よりも信じた稀有のアーティスト
- 先見の明があり、少し頑固で職人気質だったものの、実は寛大で心の優しい人
だったのではなかろうか。
近親者から直接聞こえてきたいくつかのエピソードから、それらを論考したい。
実はミルトンの病状が悪く、マンハッタンの病院に入院中だというのを、筆者は以前より知っていた。経緯として、2月末にニューヨークを代表するビール会社「ブルックリンブルワリー」の創業者スティーブ・ヒンディに行ったインタビューに遡る。
過去記事:
- 今や世界的なビール会社に大成長したブルックリンブルワリー。ロゴは創業者がコネもなかったミルトンに果敢にアタックして頼み込み、無料で制作してもらった。
この記事にもあるように、今や日本を始め世界中で人気のブルックリンラガーのロゴも、ミルトンの作品だ。
スティーブは、ミルトンについて「自分のビジョンを持っている天才。他人が彼の仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在」と語っている。インタビューではほかにも、ミルトンとの出会いや当時無名のビール会社がどのように有名デザイナーに仕事を依頼できるに至ったかなど、貴重な記憶や経験をシェアしてくれた。思わず顔がほころぶ思い出話の連続だったが、一瞬スティーブの顔が曇り、このように漏らした。「ミルトンは実は病状が良くない。彼はもう90歳を超えている。今日もこの後、見舞いに行く予定なんだ」
ニューヨークはそれから半月もしないうちに一気に新型コロナウイルスの感染者が激増し、街がロックダウンした。毎日多くの死者が出続け、多い時で1日の死者数は800人近くにも上った。その多くは入院先の病院、介護施設、老人ホームに入居するお年寄りだ。私は事あるごとにミルトンのことが気に掛かるようになっていた。
スティーブの目から見たミルトンに話を戻そう。いくつかインタビューで聞いたエピソードで印象的だったものはこちら。
無名のビール会社が、毎日ミルトンのオフィスに電話をかけ続けたが受付係に無下にあしらわれた。最終的には熱意が伝わり電話を繋げてもらえたときのこと
ミルトンによる会社名とブランド名の命名について
ロゴが完成し、見せてもらったときのこと
ミルトンがNY州の観光キャンペーン同様に制作料を受け取らなかったことについて
スティーブは2014年以降、CEO職と社長職を若い世代に引き継いでいる。季節限定商品や販促物などで目にする新しいパッケージデザインも引き続きミルトンが担当なのかについて問うと、「いや実は違うんだ」と言いにくそうな答えが返ってきた。「なんて言うか...。彼は私だから依頼を受けてくれていたところがある。新しい人の依頼は難しい」。心の底から信頼を寄せる旧知の仲からしか依頼を受け付けないということらしい。いい意味で頑固な職人気質だった一面も、そのエピソードから窺い知れる。
最後に、ミルトンが今から3年前、87歳のときに残した「人生で大切にしたいもの / 意味深い人生とは」というメッセージをシェアして、この追悼記事を結びたい。
「ロジックと直感、どちら派か」と聞かれた彼は、「直感にはよりパワーがある。ロジックは知らないことを補うための小細工。私は信じない」と即答している。「I(ハート)NY」のラフが生まれた時もそうだった。
Things that Matter in Life: A Conversation with Milton Glaser
「名声、お金、他人からの評価なんていうのはつまらないことです。それよりも大切なこと、それはあなたの人生にいる人との繋がりや関係性、ただそれだけです」「何が真実かをどのように探るか?それは人生の問いかけです」by Milton Glaser
- 敬称略
(Text and some photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止