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「クラフトビール」ブームを作った男 ブルックリンラガーが世界のビールになるまで【創業者インタビュー】

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
創業者のスティーブ。カウンター右端がいつもの指定席。(c) Kasumi Abe

水曜日の午前10時。テイスティングルームの2階にあるオフィスはとてつもなく広く、剥き出しの天井と柱がいかにもブルックリンぽい。「ようこそ」と笑顔で現れた創業者のスティーブ・ヒンディは、ストライプシャツの上にカジュアルなベストを羽織りジーンズ姿。いわゆる会社の「エライ人」というより、 どちらかと言うと同業者を思わせる。

私は大好きなブルックリンラガーの話を聞けるこの日を、とても楽しみに迎えた。スティーブに誘導され、スタッフが仕事をしているオフィスを歩く。右側の全面ガラスの向こう側にはミーティングルームが連なり、いくつもの戦略会議が行われているようだ。胸が高鳴る中、一番奥の部屋へと通されテーブルに着いた。

ブルックリンブルワリーBrooklyn Breweryとは?

全米はもとより、日本や北欧でも流通するニューヨーク発の地ビール。創業は1987年。戦場ジャーナリストだったスティーブ・ヒンディ(Steve Hindy)が、中東特派員を終え帰国後、自宅キッチンで趣味のビール作りをしたことが始まり。クラフトビールという概念はここから始まったと言っても過言ではない。

ブルックリンブルワリーのテイスティングルーム。(c) Kasumi Abe
ブルックリンブルワリーのテイスティングルーム。(c) Kasumi Abe
ここで行われているブルワリーツアー。(c) Kasumi Abe
ここで行われているブルワリーツアー。(c) Kasumi Abe

(以下、創業者スティーブ・ヒンディ氏のインタビュー内容)

80年代、戦場を駆け抜けた

私は1979年から5年半、ジャーナリストとしてAP通信で働き、中東地域に派遣されました。イラン革命時にはイランでアメリカ大使館人質事件をレポートし、イラン・イラク戦争時はバグダッドでイラク軍のすぐそばにいました。湾岸戦争時はベイルートで戦況を追っていました。特派員という仕事は大変やりがいがありました。

それがなぜブルックリンでのビール作りに至ったか。

妻エレンとのロマンスが関連します。札幌生まれのエレンとは16歳の時に出会い、彼女が大学を卒業した73年に結婚しました。私は24歳、エレンは22歳。私の就職のために北部アップステート・ニューヨークからニューヨーク市内に引っ越しました。しかしその後いろいろあって、私たちは離婚することに。ベイルートに派遣された後も、私はしばらく報道にのめり込んでいました。しかしある時ふと心の中で、エレンを恋しく思うようになりました。手紙を書き何度かのやりとりの後、彼女がベイルートまで会いに来てくれました。

最終的にはよりが戻り、私たちは戦時中のベイルートで再婚しました。子どもが生まれた後は、危険と隣り合わせのベイルートからカイロに引っ越し、2人目の子も授かりました。そんな訳で私たち夫婦は山あり谷ありですが47年間も一緒にいます(笑)。

そうこうしていたら、マルコス元大統領の件でフィリピンへの派遣要請がきました。私は嬉しくて意気込んでいたのに、エレンが幼子連れでのマニラ行きは嫌だと大反対。それで私は自分の意に反して84年に退職し、家族と共にニューヨークに戻って来たのです。

翌年から新聞社のニューズデイ(Newsday)の編集者の仕事を得ました。しかし私は全然ハッピーではありませんでした。世界を揺るがす場所で動き回っていた私にじっと机に座る仕事ができると思いますか? もちろん編集者次第でレポートの価値も上がってくるので良い編集者はとても価値があります。しかし私にとって編集職は見返りを感じられませんでした。オフィスを見渡すと、年寄りの白髪頭の同僚男性が、ネクタイを締めて机にひたすら向かっている。「これは自分がやりたいことではな~い」と思いました。

振り返ると、おそらくこれが起業への強いモチベーションになったのでしょう。

ビール作りは自宅キッチンから

そのころ私は趣味で、自宅でビール作りを始めました。カイロで出会ったアメリカ大使館の外交官が、サウジアラビアに住んでいた時、アルコールを買えないので自宅で作っていたと教えてくれました。その時にビールって自宅でできるんだと知りました。

当時からニューヨークには、ビールやワインのホームブルワリーキットを販売する店がいくつかありました。ラガーは温度調整が大変だけどエールは簡単なので、最初はアンバーエールを48ボトル作りました。なかなか美味しかったですよ。ただし…ボトルに蓋を取り付けるのが一苦労でね。いつもボトル半分が破損し、ガラスの破片が散乱するわエレンには怒られるわ…。

それから2年後の87年に、トム・ポッターと一緒に創業しようということになりました。私はそれまで大企業に属していたわけですから、起業は大きな変化でした。事業を立ち上げるのは未知の世界で怖かったです。資金が持つか、売れなかったらどうしようか、など心配は尽きませんでした。

治安悪し=安い土地、ブルックリンで創業

ビール販売を開始した1988年、雑誌『Adweek’s Marketing Week』に掲載された。最初の場所、Otto Huber Brewery跡地ビルの醸造所にて。(c) Brooklyn Brewery
ビール販売を開始した1988年、雑誌『Adweek’s Marketing Week』に掲載された。最初の場所、Otto Huber Brewery跡地ビルの醸造所にて。(c) Brooklyn Brewery

ビールを販売したのは翌88年からです。今の場所よりもっと奥地のブッシュウィック地区で醸造していました。

その時代のブルックリンは、とても治安が悪かったです。日暮れ後は大男のトラックドライバーでさえも近寄らなかったほどでした。なんでそんな場所を選んだか?19世紀のビール醸造所の廃墟ビル(Otto Huber Brewery)跡地の2階が無料で貸し出されたからです。

しかしタダより高いものはありません。床はガタガタで、エレベーターとフロアの段差も大きく、ビールの搬出は相当骨の折れる作業でした。結局、有料(年間リースがスクエアフィートで1ドルと格安)の1階に移ったものの状況は変わらず。91年からウイリアムズバーグ地区にオフィスや倉庫を置きながら、88年から96年まで州北部のユティカ市で醸造していました。

ウイリアムズバーグの今の場所に醸造所とテイスティングルームを置いたのは96年のことです。

96年5月、醸造所とテイスティングルームを現在の場所に移した。左からトム、ギャレット、スティーブ。(c) Brooklyn Brewery
96年5月、醸造所とテイスティングルームを現在の場所に移した。左からトム、ギャレット、スティーブ。(c) Brooklyn Brewery

今ではウイリアムズバーグは、マンハッタンより不動産が高くなりました。しかし当時は倉庫や工場以外何もなく、年間リースがスクエアフィートで3ドルと格安でした。うちは35,000スクエアフィートなので当時の賃料は年間105,000ドル程度。今ではスクエアフィートで60ドル以下は見つからないから、どれだけ安かったかわかるでしょう?

世界的デザイナーが手がけた「B」ロゴ誕生秘話

2003年ミルトンのスタジオでデザインの打ち合わせ。(c) Brooklyn Brewery
2003年ミルトンのスタジオでデザインの打ち合わせ。(c) Brooklyn Brewery

ブルックリンはもともとビール作りの盛んな街で、19世紀には48もの醸造所があったんですよ。76年に廃業するまで、この辺にも2つの大きな醸造所がありました。

だから私たちの創業時のキャンペーン(スローガン)は「メイド・イン・ブルックリンのビールを作り、この街に醸造所を復活させよう」ということでした。

私が最初に考えたブランド名は、地元紙からとった「ブルックリン・イーグル・ビール」。ブランド名が決まれば次はラベル作りです。エレンが「せっかく作るのだからトップ中のトップにお願いしては?」と言います。私の頭に浮かんだのは「I(ハート)NY」のロゴやボブディランのアルバムの販促ポスターを手がけたミルトン・グレイザーでした。

早速彼のオフィスに電話をかけてみました。電話に出た女性は「あなた、ミルトンが誰だかお分かり?」と聞きます。私は「もちろん。それを承知で電話しています」と答えたところ「ミルトンは誰でも闇雲に会うわけではありませんよ」とあっさりと断られました。私のジャーナリスト魂がメラメラと燃え、こう返しました。「私はミルトン・グレイザーに会うつもりでいます」。その日から毎日電話をかけ続けました。

ある日その女性が「あなた、諦める気になったわけではないですよね?」と聞いてきたことがありました。私は「いいえ。私はミルトンと話をしたいのです」と答えました。彼女は「待って」と言い、ついにミルトンに繋げてくれたのです!

ミルトンに構想を話したところ「それは楽しそうだね。会いにおいで」と招いてくれました。そうして出来上がったのが87年に完成した「B」のロゴです。

(c) Kasumi Abe
(c) Kasumi Abe

《誕生》「クラフトビール?何それ?」

ただし、事業はまったく思うようにいかなかったです。ニューヨークはビジネスをする上で過酷な街です。「俺たち、ビールを作っているんだ」と言って「おぉ、すごいね!じゃ100ケースオーダーするよ」…とはなりません。たいてい「そうなんだ」で終わる。クラフトビールがまだ浸透していない時代ですから、「そもそもクラフトビールって何だよ?」という反応でした。

クラフトビールとは?

当初、小規模のビール会社はマイクロブルワリーと呼ばれていた。American Homebrewers Associationが発行する雑誌で、コロラド在住のITライターが「ブルワリーはまるでマイクロプロセッサーのようだ」と表現したのがきっかけ。その後、スティーブが06年より会長を務め、現在は取締役会のメンバー、Brewers Associationでクラフトビールという言葉を使うようになった。

「我々が『クラフトビール』と名付け定義化することで、小規模のブルワリーの販売を促進しようとしたのです。生産量が年間600万バレル以下で、独立企業でかつ大手により25%以上の株シェアを持たせない、そして醸造免許を保持している──これらを満たせばクラフトビールと呼んでいいのです」

日本でクラフトビール、いつから聞くように?

過去30年以上の日本全国の新聞記事(約150紙)を一括検索できる「G-Searchデータベース」によると、クラフトビールという言葉の新聞掲載数は、2000年代初頭には年間15件、10年には35件、11年には99件。12年に入って3桁台の260件、13年には502件。14年に入って4桁台の1198件で昨年1年間では2167件。

《衰退から復活まで》資金が底突き、二足の草鞋

91年には会社の資金がとうとう底を突いてしまいました。社員への給料はかつかつ支払えたけど、私とトムの給料がまったく出ない状態に。当時湾岸戦争が勃発し、私はニューズデイから戻らないかと声をかけられ、午前中はブルワリーのオフィスで営業電話や顧客訪問をし、午後から42マイル(約67km)離れた新聞社で真夜中まで働く生活になりました。トムは1人でここを回し髪の毛が真っ白になりました。事業がこれからどうなっていくのか、不安でいっぱいでした。

事業が好転したきっかけですか? 94年にギャレット・オリバー(Garrett Oliver)がブルーマスターとして働き始めたことが大きいですね。彼に商品開発を任せるようになってから、ブルワリーを立て直すためにより多くの資金を調達できるようになりました。

ギャレットはうちの各種ビールの生みの親です。美しいビールを創り出すことにいつも情熱を燃やしている素晴らしい「アーティスト」でもあります。

ある日、ギャレットとミルトンの共通点に気づきました。共に天才で、共に自分たちのビジョンを持っています。だから他人が彼らの仕事について、あれこれ口を出せない、そのような存在です。

2004年発行のワシントンポスト紙。ブルックリン発の「注目ビール」として特集された。(c) Brooklyn Brewery
2004年発行のワシントンポスト紙。ブルックリン発の「注目ビール」として特集された。(c) Brooklyn Brewery

ビジネスを成功させる秘訣とは?

1. ロゴ(ブランディング)

オフィスに飾られている、ミルトン・グレイザーによるロゴのデッサン。(c) Kasumi Abe
オフィスに飾られている、ミルトン・グレイザーによるロゴのデッサン。(c) Kasumi Abe

私たちは初期の初期に大切なことをしました。それはブランディングです。

先のミルトンの話には続きがあります。打ち合わせで彼にブランド名を話したら、彼が「イーグルはいらない。シンプルにブルックリンラガー、ブルックリンブルワリーにしよう」と言いました。その言い分はこうでした。「ブルックリンで事業をしようとしている。そして誰も土地名を名乗っていない。だからブルックリンにフォーカスしよう」。ただし、今ではクールなイメージの土地柄ですが、先述のように30年前は良くなかった。「ブルックリンブルワリーという名にする」と人に言っても「えええ?」という反応でした。

また、こんなこともありました。ミルトンができあがったロゴを見せてくれた時のこと。そこには「B」とだけ書かれてあります。私は思わず「え、これだけ?」と聞きました。彼は「何も言わずに持って帰り、多くの人に見せず、キッチンのテーブルに置いて奥さんだけに見せてごらん」と言います。その通りにしたところ、Bのシンプルな美しさが浮き立って見えるようになりました。かつての球団ブルックリン・ドジャースを始めとするこの地のスポーツの歴史も呼び起こすものでした。でもノスタルジーとは違い、逆に新鮮で新しくスマート(賢さ)だった。これらはミルトンから教わったことです。

2. 流通(ディストリビューション):

ロゴ入りのバンの前で。(c) Brooklyn Brewery
ロゴ入りのバンの前で。(c) Brooklyn Brewery

近所にソフィア・コーリヤ(Sophia Collier)という女性起業家が住んでいました。彼女はSoho Natural Sodaという会社を興した人で、事業をアパートの1室でスタートし成功した人だから、私たちはとても刺激を受けていました。ある日彼女と会う機会があり、ミルトンのロゴを見せたら、彼女が「主流ビールとは異なり素晴らしい。さすがミルトンだ」と褒めてくれました。「しかし、デザインがいいからと言って胡坐をかけませんよ」と言います。ディストリビューション(流通)なしでは事業は難しい、と。彼女は健康食品のディストリビューターを使って売ろうとしたけどうまくいかず、ソーダに特化したディストリビューターもだめ、最後はバンを購入し、ロゴをつけ、自分たちで運転し販売してみてやっとうまくいったということでした。それで私たちは、ユティカの醸造所からビールをブルックリンまで運び、ロゴ入りのバンに詰めて売りに出ました。初日の納品は5顧客でしたけどね。

3. 寄付(ドネーション):

テレビやラジオの出稿料が10万ドルは下らないこの街で、私たちに広告を出す余裕はまったくありませんでした(実はミルトンのお支払いは、彼が私たちの株の一部を保有するということで合意していました)。お金がない代わりに、私たちはできることをしました。それはビールの寄付です。寄付によりコミュニティと繋がり、信頼を得、ブルックリンブルワリーのプロモートにも繋がりました。今でも年間1000を超えるNPOの文化団体や市営公園、ギャラリーなどへ、ビールの寄贈を行っています。

初の旗艦店、東京Bのオープンによせて

創業から33年が経ちました。私は個性のない店舗をただ増産するだけのビジネスには興味がありません。パートナーとのご縁がまずありきです。そういう意味で、東京の素晴らしいビジネスパートナーとの出会いがあり、2月に国外初の旗艦店「B」(ビー)をオープンできたことにとても感謝しています。

私たちがブルックリンで創業した80年代は、アメリカでのビール市場はライトラガーのバドワイザーやミラーなどが独占し、輸入ビールのシェアは2%しかありませんでした。私は「よし、ハイネケンやベックスぐらい良いものを作るぞ」と闘志を燃やしたものです。つまり、メジャー企業相手に勝機はないから、2%のマイナー市場の中で切磋琢磨し、主流よりもリッチな味わいでホップ色の強い、自分たちなりのビールを作って勝ちたいと思ったのです。それが今や、アメリカでの輸入ビールの割合は17%に、クラフトビールも17%弱まで成長しました。

日本でも今、輸入ビールは全体の2%だけど、アメリカの輸入ビール市場がここまで成長したように、私は日本のビール市場もこれから変わり、クラフトビールと輸入ビールが共に成長するだろうと期待しています。

我々の東京の「B」がオープンした再開発ビル「K5」には、クールなホテルやレストランなどもあり、そこで働く素晴らしい人々もそのビルを特別な存在にしています。場所(日本橋兜町)は金融街で、これまでナイトシーンがなかった場所。でもだからこそ、ここで「何かの始まり」を感じざるを得ません。何もなかったブルックリンで、33年前に始まったブルックリンブルワリーと同じように。(了)

(c) Kasumi Abe
(c) Kasumi Abe

(Interview and text by Kasumi Abe, Photos by Kasumi Abe and Brooklyn Brewery) 無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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