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米同時多発テロから17年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
世界貿易センター南棟に2機目が激突したときの様子。(写真:ロイター/アフロ)

アメリカ同時多発テロが起こって今年9月11日で17年目となる。今年は記念式典の直前、9月8日にうれしいニュースがあった。

ビル倒壊で破壊された地下鉄WTCコートラント駅が、17年の時を経て再び開通した。1904年に開通したニューヨーク市地下鉄(MTA)は老朽化が進み、暗い、汚い、ネズミが多い、夏場は蒸し暑いと悪名高い。しかし最新のこの駅は明るくピカピカで、しかもニューヨーカーが長年待ちわびた、市内で「初めて」のエアコン稼働だ。

そのほかにもこの時期になると、911関連のニュースやあの日の出来事がさまざまな形で報道される。しかし、実際にあの日人々がどう過ごしたかについてはあまり語られることがない。

ニューヨーカーに、あの日見たもの感じたものを振り返ってもらった。今一度、平和や命の尊さについて考えるきっかけになることを願いながら── 。

画像制作:Yahoo! Japan
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911、ニューヨーカーとそれぞれの記憶

ジョン・カレラさん・男性・ローンオフィサー

ローンオフィサー(金融機関の独立系融資担当者)として働く私は、あのときもミッドタウンのロックフェラセンターにあるオフィスに勤務していた。その日の朝、私はすでに出社しデスクワークをしていたら、9時ごろになって出社してきた同僚らが口々に飛行機事故の話をしだした。そのうち、これはテロだという話になり、ラジオ放送を聴いて確信した。

次に考えたのは、自分たちのビルも標的なのでは?ということだった。ロックフェラセンターは世界貿易センター同様にニューヨークを代表するビルだし、あのときはテロリストがいったい何人構成でどんな行動をしようとしているのかまったくわからなかったので、そう考えるのもしょうがない。すぐに上司から帰宅命令が出た。私はすぐさまATMに立ち寄り、ある程度の現金を引き出した。なぜならしばらく銀行が機能しなくなるだろうと思ったからだ。

そして兄が働く34丁目のエンパイアステートビルも、同様にテロの標的になるかもしれないと思った。兄の安否を確認しようとしたが、 世界貿易センターにある携帯電話の基地局が破壊され、私の携帯が通じなくなってしまったのと、交通機関もストップしたため、歩いてエンパイアステートビルに向かった。

兄のオフィスは20階ぐらいにあったと記憶している。オフィスに到着したときに窓から私が見たものは、戦闘機がビルのすぐそばを飛んでいく姿だった。あんな低空飛行の戦闘機を「見下ろした」のは初めてのことだった。あれを見て、「あぁ、戦争が始まった」と思った。

そして家族に会いたい。家に帰らねばと思った。

2人の子どもはブルックリンの学校にいる時間だ。妻はダウンタウンの世界貿易センター近くのオフィスで働いていた。妻のことが非常に気がかりで、とにかく妻のオフィスまで歩いて向かうことにした。しかしすでに道路が閉鎖され、ダウンタウンには誰も入れなくなってしまっていたため、しかたなくマンハッタン橋を徒歩で渡ってブルックリンに戻り、子どもを学校へ迎えに行った。

オフィスからブルックリンの家に帰宅するまで、トータル4、5時間は歩いただろうか。道中歩きながら、たくさんの見知らぬ人と話をした。中には家族が世界貿易センターで働いているが連絡が取れないと、とても心配そうにしている人もいた。この長い帰路の先にどんな知らせが待っているのか、自分も含め皆が心配した。

子どもの学校へ行くと、私よりもひと足先に到着した妻がすでに迎えに来ており子どもたちは帰宅した後だった。彼らが私の安否を気にしていたと知らされた。帰宅して家族全員の無事な姿を見て、どれだけ安堵したことか。ブルックリンの自宅はホコリや煤(すす)まみれになっていた。ごみやホコリが数週間ほど空を舞っていたのを覚えている。

その後、数週間かけて、我々に一体何が起こったのか、また被害状況がどれほどのものかを知ることになった。私の街は、あの日変わってしまった。

エンパイアステートビルからダウンタウンを望む。(遠方の高い塔が、世界貿易センター跡地に建ったフリーダムタワー)Photo: Kasumi Abe
エンパイアステートビルからダウンタウンを望む。(遠方の高い塔が、世界貿易センター跡地に建ったフリーダムタワー)Photo: Kasumi Abe

N. T. さん・59歳女性・非営利団体運営

2001年9月11日は忘れもしない、私のがん治療の初日だった。当時金融企業でエグゼクティブ・ディレクターとして働いていたが、その日は午前半休を取り、東32丁目の病院に向かった。不安な気持ちでふと空を見上げると、雲一つない真っ青な晴天で、こんなに清々しい天気は何日ぶりだろうと思いながら、病院のドアを開けたことを今でも鮮明に覚えている。

治療を終え朝9時ごろ病院を出ると、いつもは活気のある通りに車が走っておらず、ものすごく静かで不思議な感じがした。その後タクシーで48丁目の会社に向かったが、テレビに釘づけになっている人だかりを見かけて「何があったのだろう?」とドライバーと話しながらラジオをつけてもらった。そこで、原因は不明だが飛行機がビルに突っ込んだと知った。

会社に到着すると、上階のオフィスから降りて来た同僚からただの事故ではないことを知った。上司には出社するように言われたので、私は人の流れに逆らって36階まで上がったが、次々に降りてくる同僚に「何してるんだ。早く帰れ!」と怒鳴られたことも記憶している。

私の部署だけが皆残っていたが、窓から遠くに見える黒煙に鳥肌が立った。そして、ビル2棟が倒壊した ──── 。そこからオフィスも外もパニック状態だったこと以外は、あまり記憶がない。

外に出ると煙の匂いが漂っていた。公共交通機関がストップし、私は歩いてアップタウンの自宅へ。いつもは観光客でごった返すタイムズスクエアは、泣き叫ぶ人、逃げ惑う人などでカオス状態だった。

私の会社は支店がいくつかあり、南棟にもたくさんの階にオフィスが分散していた。そこでは親友が働いていたので携帯に20回以上メッセージを残したけど、コールバックはなかった。

いてもたってもいられず、献血をしようと近くの赤十字社に駆け込んだが、4時間待ちの行列ができていた。受付までやっとたどりついたのに体重が50kg以上ないと採血できないと言われてしまった。それで引き下がるわけにはいかず、何かできることはないか懇願すると、奥のオフィスで聞いてと言われた。

そこでも待つこと2時間。やっと自分ができることを記入する書類をもらったが、特技があるわけでもない。すると80歳は超えているだろうご婦人が「私はこのような年齢だけれど小石くらいは拾える自信がある」と泣きながら頼んでいる姿を見て、私は...「日本語ができる!」と担当者に言ったことも覚えている。

後日、親友や同僚、そして避難誘導のためビルに残った我が社の素晴らしい警備長、Rick Rescorlaらが亡くなったことを知った。

会社は1週間ほど休みになった。その最中、「一人でいたくない。とにかく集まって手を取り合おう」と、どれだけ近所の(これまで一度も話したことがない)人々からお茶やランチに誘われたことか。道ですれ違う見知らぬ人たちと何度ハグをしたことか。歩きながら、涙がとめどなく流れ落ちる。毎日毎日泣いていた。

1ヵ月後、亡くなった親友の家族がニューヨークを訪れ、アパートの整理を一緒にした時はとても辛かった。それから9月11日近辺は毎年その家族と会う日になり、親友の思い出話やお互いの近況報告をする。今年ももうすぐその日がやってくる。

会社は休みでもがんの治療は毎日続けなければならず、カオス状態の街を毎朝1時間以上も歩いて病院に通った。待合室には、私と同じくがん患者がドクターの到着をじっと待っていた。そこには美しい熱帯魚の水槽があり、それを見つめながら何時間も待つ ──── 。その間、ほかの患者さんと会話をし、気がつくと手を握り合いながら、皆で誓ったこと── ── 。

生きよう、何があっても前を向いて。

こうして命があることに感謝しよう。

亡くなった何千人のためにも、弱音を吐いている場合ではないよね。

私にとって911は、命を再びいただいた日のように思う。あれだけの体験を忘れたいと思う人、忘れないでと思う人、皆それぞれだけど、命の尊さや人を思いやる気持ちをリセットする日として、私は今でも大切にこの日を迎える。

世界貿易センタービルの跡地、グラウンドゼロ。Photo: Kasumi Abe
世界貿易センタービルの跡地、グラウンドゼロ。Photo: Kasumi Abe

2018年の主な記念式典 in NY

9月11日、世界貿易センター跡地のグラウンドゼロや、そのすぐそばで奇跡的に無傷だったセントポール教会などで、記念式典が開催される。また、日没後から翌日まで、北・南棟に見立てた2本の光のタワー「トリビュート・イン・ライト」も照らされる。

原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より
原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より

過去記事

2017年 (前編)(後編)

(Interview and text by Kasumi Abe)  無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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