911同時多発テロから16年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(後編)

(写真:ロイター/アフロ)

ニューヨーカーとそれぞれの911(2)

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ヴァネッサ・フィグエロアさん・48歳女性・英語教師

911の恐怖は今でも時々思い出すわ。亡くなった人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになる。真のニューヨーカーというのはよく言われるように、そもそもタフで芯が強いの。そしてちょっとやそっとのことでは負けない。でも911は壊滅的な出来事だった。あのときだけは誰もが皆、膝から崩れ落ちた。

個人的に、あのころ私は「コミュニティー機関を運営する」という将来の夢に向かってがんばっていたけど、911によりその夢を諦めざるを得なくなった。当時私は、ワシントンハイツ(マンハッタン北エリア)にあるアフタースクール・プログラムのサイトディレクター(地区部門長)として働き、1年目を終えたばかりだった。いくつもの新規プログラムを成功させ、毎日が充実していた。夢に1歩、1歩進んでいた。あの日までは。

9月11日は1週間後にプログラムが再開するというときで、正午ごろスタッフミーティングが控えていたので、朝のうちに洗濯を終えようとブルックリンの自宅近くのコインランドリーに行ったの。ランドリーに着いたとき、そこにあるテレビで飛行機がツインタワーの1棟に突っ込んだことを知った。「なんてひどい事故か」と驚いた。すぐ近くにある警察署と消防署から、パトカーと消防車がいっせいに出動した。

その後2機目がビルに突っ込み、私たちはそこで初めて「これは事故ではなく攻撃だ」ということがわかった。ランドリーにいた人々は誰もが皆、目を見開きテレビ画面に見入っていた。その後私は自宅に戻り、あまりのショックで床に座りこんでしまい、しばらく立つことができなかった。ただただ涙が流れ落ちた。

私にとって、もう一つ悪いことが起こった。911から1週間~10日くらいして、職を失った。私が働いていたアフタースクール・プログラムを管理していた非営利団体のエージェンシーは、蓄えていた資金を911の復興のために寄付することを決めた。同様にほかのいくつかの非営利団体のエージェンシーも、911復興のために資金が不足し、運営ができずに閉鎖した。当時1~4年生の子どもたちを担当していたけど、その日以来子どもたちには会えなくなった。もうその子たちも今じゃ20代のりっぱな大人に成長しているはず。

失業給付金を1年半ほどもらうことはできたけど、自分の知識やスキルを生かして情熱を傾けられるような同様の仕事を見つけることはできなかった。

その後、ニューヨーク市の市議会議員のために教育連絡員として働くことになり、約1年後の2003年、外国語が第1言語の生徒のための英語教師として採用された。やっとパッションを持って働ける仕事に出合った。

911メモリアル博物館にて(Photo: Kasumi Abe)
911メモリアル博物館にて(Photo: Kasumi Abe)

ナカイ・ヒデジさん(仮名)・60歳男性・自営業、クリエーター

911が起こった2001年は、私がニューヨークに移り住んで9年目。前の日は雨が降っていたけど、911の日は秋晴れのカラッとした気持ちのいい朝だった。

当時私たち家族はブルックリンに住んでいて、私は娘を幼稚園に送り届け、地下鉄でマンハッタンに通勤しようとしていた。でも電車がなかなか来なくて、やっと電車に乗れたと思ったら車掌から「世界貿易センターで火事が発生しました。電車は動きません。次の駅で止まります」と、そしてニューヨーカーらしいジョークで「世界貿易センターにお勤めの方は、今日は働かなくてラッキーですね」とアナウンスがあり、乗客は全員マンハッタンに入ったばかりの駅で降ろされた。つまり、そのころはこんな冗談を言って笑い合えるくらい、まだ事の重大さがわかっていなかった。

地上に出てみると、2つのビルから煙が出ているのが見えた。車は走っておらず、人々の様子も騒然としている。尋常じゃないことが起こっていると思った。その辺に立ち往生している車がいっせいにカーラジオの音量を最大にし、皆で耳をそばだてた。そして人々が、「It’s War!」(これは戦争だ)と叫び出した。

そこには2種類の人々の波ができていた。一つは現場から逃げようという波、もう一つは現場に向かおうという波だ。自分はとにかく現場に向かって歩くことにした。ニューヨーク市役所のある近辺で、もくもくと黒煙を上げているビルの様子を見ていると、信じられないことに南棟が崩れ出した。そのときまで高みの見物をしていた人々は、大パニックになった。それまでは「大変だ」という気持ちで燃えているビルを眺めていたのに、ビルが崩れ出した瞬間に「これはやばい」と思ったのだ。「ビルの外にいる私たちまで、被害が及んでしまう」と。

私は人々の流れに沿って、マンハッタン橋の方向に逃げた。橋は真ん中がやや膨らんでいる設計で、必死でその坂道を歩いた。裸足で逃げている人も見かけた。中には貿易センターから逃げてきたと言う人もいた。橋の真ん中を通過するころになって、今度は北棟も崩れ始めた。でもそのころには、自分も含めそのことに関心を払う人はいなかった。とにかく考えたことは、必死で逃げること、だけだった。

風向きの関係で、ブルックリンに戻っても、半分焼け焦げたものすごい量の書類や請求書が空から降ってきた。徒歩で1時間くらいかけて帰宅すると、妻が心を落ち着かせるために編み物をしていた。娘を公園に連れて行ったんだけど、普段はけんかなどしない娘がほかの子とけんかをはじめた。

911から4日後の土曜日、誰による呼びかけでもないけど、自然に人々がブルックリンのイーストリバー沿いにある遊歩道に集まり、キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教どんな宗教も関係なく、その場に集まったすべての人々が全員、世界貿易センター跡地へ祈りを捧げた。

それと当時、私は日本のテレビの仕事をしていた。プロデューサーはこれは千載一遇のチャンスとばかりに、「ひどい映像を撮って来い」と要求してきた。ありのままの映像ではおもしろくないらしく、現地のほとんどの人々は平和のために祈りを捧げたいという姿勢なのに、「アメリカは攻撃するべきだ」と声高に叫んでいる人々を撮影しろ、と。今考えると、視聴者をあおるためだけの、あれもある意味フェイクニュースだったと思う。

911に見たものは今まで生きてきた中でもかなり消えない記憶だ。この16年で何が変わったか。おそらく、911以前は人々はイスラム教に対して見下していたところがあったと思うが、あの日以降多くの人々がイスラム教について知ろうとし、正しい知識や理解を得たことではないだろうか。

911メモリアル博物館にて(Photo: Kasumi Abe)
911メモリアル博物館にて(Photo: Kasumi Abe)