なぜ桐生祥秀は男子100mで6年ぶりの日本一を手にすることができたのか…プロ意識が生んだ小さな進化
日本スプリント界の”新陳代謝”が活発化するなかで、桐生はセンター(中心)に君臨した。男子4×100mリレーでは日本代表メンバーとして、リオ五輪では銀メダル、ロンドン世界陸上とドーハ世界陸上では銅メダルをもたらしている。 しかし、日本選手権はなかなか勝つことができなかった。過去4年間(16~19年)の順位は3位、4位、3位、2位。それでも少しずつタイムのアベレージを上げてきた。9秒台こそ、17年9月の一度だけだが、10秒0台は21度。そのうち11度は、この2年間でマークしている。 今季は短いシーズンながらも、8月1日の北麓スプリントで10秒04(+1.4)、8月23日のセイコー・ゴールデングランプリ(予選)で10秒09(+0.7)。翌週のアスリートナイトゲームズイン福井では予選で10秒07(+0.9)、決勝でも10秒06(+1.0)で走破している。日本選手権は予選、準決勝、決勝の3本とも10秒2台だったが、今季最後のレースでライバルたちに勝ちきった。 桐生は東洋大を卒業後、日本生命と所属契約を結び、プロランナーになった。今年は「アスリートフードマイスター」の資格を持つ年上女性と結婚。1月1日に婚姻届けを提出している。その影響か、「結果を出すか出さないかでスポンサーがつくかつかないかも変わる。そういう意味では甘えもなくなった」と話すほどプロ意識が高くなった。 日本選手権は両足の幅を広げて腰の位置を低くした新スタートに挑戦。準決勝はスタート直後によろける場面もあったが、決勝は修正してきた。 そして、前日の準決勝後に「最後の10mを焦らずに走ればいけると思う」と話していたように、終盤の競り合いにも負けなかった。桐生ほどのレベルになると大きく進化するのは難しい。しかし、わずかな成長が、スプリンターの世界では明暗をわけることになる。
「最後まで冷静に走れたのが今回の勝因かなと思います。今日は誰が前にいようと、自分の走りをしようという気持ちで臨みました。それができたと思う。ただ、今回は10秒2台ということで、見に来てくださったお客さんはどう感じたのか。スタートを変えても、まだタイムには反映されていません。冬期練習で見直したいと思います。今年は10秒0台で安定していたんですけど、来年は9秒台で安定できるのを目標に取り組んでいきたいです」 今季の陸上界は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、来年に延期された東京五輪の出場権をかけた選考期間が11月30日まで凍結された。この期間中に出した記録は、五輪参加標準記録の対象外となり、ワールドランキングにも反映されない。東京五輪をめぐる戦いとしては”空白の1年”になる。 それゆえに、日本選手権に出場した選手たちの”熱量”は例年よりも小さかったように感じた。記録を狙いにいくよりも、”安全運転”でケガなくシーズンを終えて、来季にかけたいという気持ちがパフォーマンスにも影響していた。 なお東京五輪男子100m(10秒05)の参加標準記録突破者は、現時点でサニブラウン・アブデル・ハキーム(9秒97)、小池祐貴(9秒98)、桐生祥秀(10秒01)の3人。ケンブリッジ飛鳥は8月29日のアスリートナイトゲームズイン福井で日本歴代7位タイの10秒03(+1.0)をマークしているが、参加標準記録はクリアしていないことになる。 オリンピックの各国代表は最大3人。参加標準記録を4人以上が突破することになれば、日本選手権での順位が重要になってくる。東京五輪トライアルとなる来年の日本選手権は確実にヒートアップするはずだ。かつてない盛り上がりを見せることになるだろう。今回は米国に拠点を置く前回王者のサニブラウンが欠場した。日本記録保持者が出場する大会で勝ちきることができなければ、真の日本一とは言えない。東京五輪まであと10か月。満月が照らした夜に桐生の優勝で幕を閉じた男子100mだが”本当の戦い”はこれからだ。 (文責・酒井政人/スポーツライター)