15歳で人を斬り、16歳で不良グループのトップに…戦後の東京に君臨した「伝説のアウトロー」尾津喜之助の“破天荒すぎる少年時代”
尾津喜之助は「やくざ」なのだろうか?
彼は、「やくざ」なのだろうか。 戦後間もない時期に書かれたやくざ(=暴力団、とする)に触れた資料や研究をみると、やくざをまずは職種で把握しようとしているものが見受けられる。最初に登場するのは、博打打ちで、次いでテキヤや土木建設関連業(加えて港湾荷役業なども)が続き、いうなればこれらを十把一絡げでやくざと見做していることがある。 暴力をいとわないために他者との紛争を巻き起こし、一般社会からドロップアウトしてしまう人、しがちな人はいつの時代もいる。右に挙がっている業種は、出自や経歴を問わずにやる気さえあればどんな人も受け入れ、生活の立つ道を与えてきたから、社会から逸脱していく人々の受け皿となりやすかった。 若いうちに「暴力の説得力」を発見して、ほしいままに生きてきた喜之助のようなものも包含してくれたのだった。 しかし職種だけで切り出してやくざか否かを判定するのは、現在の我々のボンヤリとした認識からいっても、そぐわない。土木系など言うまでもなく、スキルを積みあげねば仕事にならない職人芸的正業なのを我々は知っている。 ならば、しきたりから見るとどうだろう。親分子分関係を結んでいるかどうかや、「兄弟分」など独特の業界用語(?)や符丁を使っているか。いや、これも筆者には単なる外装で、些末なことに思える。 では一般人かやくざかを分かつ決定的事由はなにか。 それは、本質的には「暴力を手段として商売をしているか否か」にかかっているのではないか。
テキヤは商品を露店に置き、それを売って利益を得るという実業
土木建設業は技能と筋力の組み合わせで構造物を造って利益を得、テキヤは商品を見極めて露店に置き、それを売って利益を得るという確固とした実業に違いなく、粗暴で喧嘩騒ぎを起こす者がいくらいたにせよ、暴力そのものを手段として利潤を追求してはいない。 それぞれの実務の道を究めることが美徳という世界観が用意されている。ドロップアウトした人々が業界に入っても、心を入れ替えれば、暴力から離れ、それぞれのプロとして生きる道がある。 博打打ち、博徒はその点異なる。汗をかいて働くのは野暮で、違法行為と知りながら、余人をよせつけない示威力をもって賭場を開き、維持し、そこで生きることを美徳としてきた。職人として時間をかけて技術習得したり、商人として取引先開拓をしたりして生きていく道とは異なる。 商売の構造自体がもとから示威力と結びついており、もっというなら暴力そのものを純化させ、商品化して利益を得ようとする道へと入りやすい。つまり博徒こそをまず、厳密なやくざの定義に入れていい。そして、暴力が商材というならば、このとき尾津もやくざと言っていいことになる。 なんだかややこしくなってしまったが、のちの時代、警察がやくざ分類法を完成させたことによって、一般社会のやくざ認識もまた、誠にややこしくなった。高度成長期以降、警察は暴力団の取り締まりと監視を一層強化したが、そのとき、暴力団を仕分けた方法が、さきほどの暴力で規定するやり方とは必ずしも一致しないのだ。 警察的定義に従えば、親分子分関係など外装的なことも多分に加味され、右の博徒もテキヤも同類として扱ってしまっている。 筆者が知っている現在のテキヤ団体のいくつかは、露店で物を売る商人でしかないが、暴対法、暴排条例によって、商売は相当に規制を受けている。警察から見れば、今もやくざなのである。 ややこしさを振り払いたいとき、もう一度言うが、これだけを判定材料にすればいい。 「暴力を手段として商売をしているか否か」 少々、脇道に入り込みすぎた。大正期の尾津喜之助へ戻ろう。 19歳で対立する組長の暗殺を計画、20歳で芸者と“駆け落ち”…「伝説のアウトロー」尾津喜之助が歩んだ波乱万丈すぎる道のり へ続く
フリート横田/Webオリジナル(外部転載)