15歳で人を斬り、16歳で不良グループのトップに…戦後の東京に君臨した「伝説のアウトロー」尾津喜之助の“破天荒すぎる少年時代”
16歳で不良グループのトップに就任
誰が付けたか「鷹」という通り名で呼ばれ、当時の言い方なら与太者そのものになってしまっていた。「暴力の説得力」だけを身に付けた男。これだけの人物であったなら、もちろん筆者もとっくに筆を投げているけれど……もうすこしお付き合いいただきたい。 勉強はできたから、このころ築地の工手学校(現・工学院大学)へ入る。継母とは疎遠のままだったようで、叔父からわずかな小遣いをもらいつつ通学しはじめた。これで持ち直すか、と思われたが……むしろ、本格的なアウトローの道へ転がっていく。 大正3年、16歳となると、喜之助は「紫義団」なる一団を結成した。なんのことはない、不良グループである。小石川の円乗寺に工手学校の学生を中心に30人ほどを集めて、結団式を行い、一帯をナワバリとするグループの団長におさまったのだった。
浅草の不良グループ・赤帯組と抗争
団長就任早々、飲み屋の用心棒をやりながら、当時、辻々に新聞の立ち売りを子どもらがやっていることに目を付けた喜之助は、小川町、春日町、水道橋、本郷肴町の街角に立つ売り子を配下に組み入れ、組織化していった。 子どもらには威圧を加えて服従を強い、カスリ(上納金)をとっていったのだろう。示威力を背景とした組織を率いて利益を狙う点、路上の商売人たちを組織化する点に、のちの時代にこの男が手掛ける商法の萌芽がすでに見える。 ところが、団長におさまっていたのは束の間だった。歓楽地を抱える浅草の不良グループ・赤帯組との間でいざこざが起こり、抗争へと発展、喜之助はふたたび逃亡するはめに。今度の逃亡先は、西。大阪まで流れた。 労働者たちの蝟集(いしゅう)する飯場へもぐりこみ、すぐに左官や瓦屋の手伝いの口をみつけた。このころは、「政やん」の名乗りだったようだ。そのうち鳶の仕事も覚え、ひとりの鳶職人を子分にして、建前屋をはじめる。基礎工事を請け負う仕事といったところだろう。 喜之助にとって最初の「子分」をこのとき持つ。おそらく略式ながらも、互いに酒を酌み交わして親と子の契りを固める盃事もやったはずだ。一般市民から見れば、もはややくざと見做されてもなんら不思議はない。そう、ここでひとつの疑問が頭をもたげてくる。