支援してくれる大人が「怖かった」 そんな10代だった私が、7年ぶりに地元・石巻に戻ってきて #あれから私は
「正直、大人たちにはずっと不信感がありました」。東日本大震災の発生時、宮城県石巻市で中学2年生だった山田はるひさん(24)。被災後は学校にもうまくなじめず、精神的に「しんどい」時期が続いていましたが、高校時代に復興中の石巻を舞台にしたファッションショーを企画したことで一躍有名に。支援を申し出る大人が増えてくるなかで感じたというのが、冒頭のひと言。それからは周囲からの注目を避けるように県外の大学へ進学し、就職。自らが社会人となった今、大人たちへの不信感は感謝の気持ちへと変わったと言います。昨年、7年ぶりに石巻に戻ってきた彼女に思いを聞きました。(Yahoo!ニュース Voice)
おなかも空かないくらい、不安でいっぱいだった
「きっと自分は高校も大学も、ずっと地元で過ごすんだろうな」と思っていたという中学二年生の彼女を、震災が襲う。 ――震災の瞬間を覚えていますか? 山田はるひさん: あの日は、先輩たちの卒業式の前日だったんですよ。体育館で準備をしていたら揺れがきて。でも宮城県沖地震がくるっていうのはずっと言われていたじゃないですか。だから心構えはあったし、私たちは津波も目にしてはいないんですよね。「これは子どもたちに見せちゃいけないものだ」と感じた先生が、「絶対ここにいて」と私たちを引き止めてくれたんです。だから当初は「今日は遊びにいく予定だったのにな」くらいの気持ちでした。 でもだんだん警報が聞こえてきて、学校にも人がどんどん避難してきて。携帯も通じなくなって「おやおや?」みたいな。そのうちに街の方から煙が上がっているのが見えて。そこでようやく「もしかしてヤバいのかな?」と思ったことを覚えています。 それからは避難してきた人たちと一緒に、毛布にくるまりながら灯油ストーブを囲んで寒さをしのぎました。日が暮れると真っ暗で。本当に暗かったなあ。でもまだどこかで「すぐ帰れるっしょ」くらいの気持ちもあって。友だちと一緒にいる心強さがあったからだと思うんですけど。実際に夜には父も迎えにきてくれましたし。 でも、本当に大変だったのは次の日からで。電気も水道もガスも全部止まっているなかで、生活しなきゃならない。食べ物も全然なくて一日一食でした。インスタント麺をそのままかじったり。けど不思議と、おなかは空かなかったんですよ。それよりも、ただただ怖くて。テレビもつかないから、何もわからない。たまにラジオを聴いても不安になることばかりでしたしね。 ――インフラの復旧までにはどれくらいかかったのですか? 山田はるひさん: 一週間くらいかな? 5月には学校も再開しました。でも生活はガラリと変わってしまって。おじいちゃんが津波で死んでしまって、独りになってしまったおばあちゃんと、津波で家を失った近所の夫婦がウチに避難することになったのですが、自宅に父と母以外の人がいることに、私はどうしても慣れることができませんでした。受験のストレスもあって、精神的にかなり追い詰められてしまって。しんどかった。体重も10kgくらい落ちてしまいました。 両親のけんかも多くなって、クラスにもうまくなじめなくなっちゃって。ひとり一人被災の状況はバラバラじゃないですか。だけど担任の先生は「みんなで頑張ろう!」みたいな熱血な人で、それが無理だなって。「こんな状況で頑張っても、うまくいくわけないよ」としか思えなかったんです。今は日記を書く習慣はないんですけど、あの頃はそういう嫌なことを全部書き留めていました。それしかストレスのはけ口がなかったんだと思います。