引き止めてくれたのは「潮の香り」 海が“消えた”防潮堤の町で、それでも漁師を続けていく #あれから私は
宮城県雄勝町で、親子三代に渡って漁業を生業としてきた佐藤一さん(51)。東日本大震災で持っていた四隻の船をすべて流されましたが、漁師を続ける道を選びます。あれから10年。地元には約9.7メートルの巨大な防潮堤が整備され「一切海が見えなくなった」といいます。海とともに生きてきた佐藤さんが感じる、海が見えない不安。震災の体験、ともに働きはじめた若者たちとのあれからを伺いました。(Yahoo!ニュース Voice編集部)
―いつから雄勝で漁師を? 佐藤一さん: もう33年。ずっと漁師をやってます。ウチはじいちゃんも親父も雄勝の漁師で。メインは銀鮭とホタテの養殖です。旬の時期が重なるから大変なんだけど、人はほとんど使わずに、家族だけでやってました。経営を見るようになったのは三十を過ぎた頃かな。結婚したせいか「ほかの漁師に負けたくねえ」って欲が出てきて。親父は「そんなんじゃだめだ」って言ってたけどね。ほとんど喧嘩だよ。最後は「じゃあ勝手にやれ」って匙を投げられて。まあ親子でやってると、どこもそんなだね。
漁師をやめなかったのは「潮の香り」のおかげ
海で育ち、海で働いてきた佐藤さん。奇しくもあの日も、海の上にいたそうです。 ―地震の瞬間って、海はどうなるんですか? 佐藤一さん: 海の上は揺れないんだよ。でも地鳴りとともに水面が「ジャワジャワジャワ」と波立って。急いで浜に戻ったんだけど、それまでは津波警報が鳴っても、潮位が1m上がるくらいだったから、今回もそんなもんだろって高を括ってたのよ。でも予想される波の高さがどんどん上がってきて、しまいには8mだ10mだって言うもんだから「片付けなんかしてる場合じゃねえ! 逃げろ逃げろ」って。近くで遊んでいた息子を軽トラで拾ったと思ったら、もう津波がすぐそこで。防潮堤を越えてきた波がバックミラーに映ったときには、焦ったなんてもんじゃなかった。 命からがら高台へと避難した佐藤さん。しかし、その頃、自宅は津波にのまれていた。 ―ご家族は無事だったんですか? 佐藤一さん: 娘と嫁は家の二階にいたんだけど、そこまで波が上がってきてしまって。でも、天井との間に15cmくらい空気の層が残っていたおかげで、なんとか窒息せずに済んだんだって。震災から四日後に、ようやく避難所でふたりに再会できたときは、心底ホッとしたよ。 けど、持っていた船は四隻ともやられちゃって。銀鮭もホタテもみんな逃げちゃった。「漁師やめようかな」って、さすがに思ったよ。これからいくら金がかかるかわからないし、第一、船がないんだから。漁師を続けるのか、他のことをするのか。二、三カ月はずっと悩んでた。実際に他の道へ進んだ人もたくさんいる。その気持ちもよくわかるよ。 でも内陸の避難所から、雄勝に戻ってきたときにふっと潮の香りがして。そのときに「俺はここでやってこう」って思ったんだ。そこからは無我夢中だよ。船を借りて、無事だったいけすを張り直して。けど、当時はずーっと眉間にシワで。周りにも「俺、もう本当にダメかも」ってこぼしてたもん。でも、「またまたぁ」みたいな感じで誰も本気にしてくれないんだよね。そしたら逆に「じゃあいっか」みたいに思えてきてさ。それで、まあ、なんとか。なんとかできました。