ドイツ大会で掲げられた「半旗」、クライフの「不参加」とアルゼンチンの「軍事政権」【ワールドカップと独裁者の不思議な関係】(1)
蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。 ■【画像】「遺伝子強すぎてヤバい」13歳美少女へと成長したベッカム末娘、激カワ素顔が際立つメイク動画を公開「可愛くて美しい」大沸騰の前作超えなるか
■ドイツW杯で掲げられた「半旗」
1974年7月、西ドイツ(当時)では、第10回ワールドカップが開催されていました。僕にとっては、初めて現地まで観戦に行った思い出の大会だったのですが、2次リーグの途中でスタジアムのポールに半旗が掲げられたのを目にしました。 「半旗」というのは英語で「ハーフマスト」。災害があったり、要人が死去したりしたときに、弔意を表すために国旗などを旗竿の先端より下の位置に掲げることです。 半旗が掲げられたのは、アルゼンチン共和国の大統領フアン・ドミンゴ・ペロンが亡くなったからでした。 ペロンはアルゼンチンの左派ポピュリスト政治家でした。国内の労働者を組織して、1946年に大統領となりました。第2次世界大戦前のアルゼンチンは牛肉、小麦などの輸出で栄える豊かな国で、首都のブエノスアイレスには大きなビルが建ち並び、「南米のパリ」とも呼ばれていました。 大統領に就任したペロンは大胆な工業化政策を行ったのですが、これが失敗。アルゼンチンの富は失われていきます。そして、ペロンも権力の座から追われます。 しかし、その後も大衆の間でのペロン人気は高く、ペロン支持者(ペロニスタ)は現在でも強い影響力を持ち続けています。また、彼の最初の妻のエバは「エビータ」の愛称で国民的人気を誇りました。ミュージカルや映画にもなったので、ご存じの方も多いでしょう。
■「最後の切り札」が帰国して復帰も…
ペロンは1955年にスペインに亡命。“過去の人”かと思われていましたが、政治的混乱が続くアルゼンチンでは1973年の大統領選挙でペロニスタのエクトール・カンポラが当選。その後も混乱が収まらなかったため、最後の切り札としてペロンが帰国して大統領に復帰したのです。 しかし、そのわずか1年後の1974年7月1日に心臓発作でペロンは病死しました。78歳でした。そして、副大統領だったペロンの2人目の妻、イサベルが大統領に就任。しかし、イサベルはエビータのような人気もなく、混乱はさらに深まります。 ワールドカップで半旗が掲げられ、ペロンの死が注目を集めたのはアルゼンチンが4年後の1978年大会の開催国だったからです。 イサベル大統領が強権的な政治を行い、左翼ゲリラが活動するアルゼンチンで、はたして無事に大会が開催されるのでしょうか……。
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