中国包囲に再結集する「アングロサクソン帝国」の賞味期限
世界の辺境から
近代以前のイギリスは「辺境」であった。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという地域に分かれ、現在でもサッカーやラグビーでは、地域が国家のように扱われる。アメリカや中国がいかに大国でも、こういった扱いを受けてはいない。スポーツにおいて大英帝国の威光はまだ残っているのだ。 古く、地中海周辺地域が文明の中心だったころ、古代ローマのタキトゥスはその著『ゲルマニア』において、アルプス以北のヨーロッパ人の、文明とはほど遠い自然人ぶりを描き出している。つまり歴史を長期的にふりかえれば、そもそも北部ヨーロッパ自体が辺境であり、イギリスはそのさらに辺境の島国であった。 イギリス人すなわちアングロサクソンは、人種的には古代ドイツの流れで、文化的にはフランスの影響が強い。それが世界的な帝国となった契機は、とにかく荒海に向かったことである。大西洋に向かったことである。
第1期・「植民地の収奪・女王と海賊」
16世紀の末、ポルトガルとスペイン(ハプスブルグ家)にほぼ100年遅れて、イギリスとオランダが世界の海に挑戦し覇をとなえる。大英帝国の発端は次の三つの事件だろう。1588年、アルマダの海戦においてスペインの無敵艦隊を破る。1600年、東インド会社を設立する。そして1620年、清教徒(ピューリタン)のメイフラワー号(ピルグリム・ファーザーズ)がアメリカに入植する。無敵艦隊を破ったフランシス・ドレークは、世界を周航した一種の海賊であり、女王エリザベス1世はそれを支援していたのだ。帝国の始まりは女王と海賊の連携である。以後17世紀をつうじて、主として北米に植民地を開拓した。 フランスがヨーロッパ大陸に覇権を広げた時代、イギリスは世界の海に覇権を広げた。考えてみればイギリスという国は、ヨーロッパの覇権を試みたことがない。そこがハプスブルグ家やフランスやドイツと異なる点である。 大英帝国には第1帝国、第2帝国と分ける考え方があり、フランスとのパリ条約(1763年)をイギリス第1帝国の完成とするのが普通であるようだが、本論ではメイフラワー号の植民(1620年)からアメリカの独立(1776年)までの150年ほどを、アングロサクソン帝国の第1期としたい。3本マストの帆船が植民地の収奪と奴隷貿易に跳梁した時代でもあった。