上皇と美智子さま、二人の「画期」となった「1975年の事件」をご存知ですか…そこで起きていたこと
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。 【写真】美智子さまにとって「大切だった人物」の写真はこちら この記事では、1975年に上皇ご夫妻が沖縄を訪れたことが、その後二人にどのような影響を与えたのかを、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。
異様な雰囲気
七月十七日午前九時五十七分、皇太子夫妻を乗せた日航臨時便は羽田空港を発った。同日朝、「沖縄海洋博粉砕」「皇太子訪沖阻止」を叫ぶ過激派各セクトは羽田空港周辺で決起集会を開いた。午後零時半過ぎ、山手線新橋駅で中核派、革マル派双方約千人の乱闘があり、同線や京浜東北線、横須賀線などがストップする事件が起きた。 皇太子夫妻は午後零時二十分に那覇空港に到着した。飛行機は着陸前、海洋博会場の本部半島上空で三度旋回。夫妻は政府出展の海に突き出た海洋構造物「アクアポリス」や各パビリオンを上空から視察した。このとき明仁皇太子は沖縄戦の悲劇の島である伊江島(いえじま)に気をとめ「伊江島ではどれくらいの人が亡くなったのか」と尋ねた。 空港には屋良朝苗沖縄県知事と県議会議長、那覇市長らが出迎えた。この日の沖縄は朝から三十度を超す暑さだった。空港周辺には約二万人の県民が集まったが、歓迎の日の丸と反対運動の声の入り混じる異様な雰囲気だった。明仁皇太子は濃紺のスーツ、美智子妃も紺のツーピースにつば広帽子姿。強い日差しのなか、夫妻は零時四十分に車に乗り、南部戦跡へ向かった。約四キロの沿道でも多くの市民が日の丸の小旗を振った。 夫妻の車が糸満市に入った午後一時過ぎ、沿道の白銀病院のベランダから過激派とみられる男二人がビンや角材、石などを投げつけたが、とくに被害はなく、車列はそのまま進んだ。
火炎瓶事件、起きる
一時二十分、皇太子夫妻は「ひめゆりの塔」に着いた。「ひめゆり同窓会」会長で、沖縄女子師範第一高女で教師を務めていた七十一歳の源ゆき子が説明役として付き添った。夫妻は白と黒のリボンで束ねた白菊を塔の前の献花台に供えて黙禱。源の説明に耳を傾けた。源は次のように証言する。 「白菊の花を献花台にささげ、深く長くお辞儀をされて三歩下がられたあたりでご説明をはじめました。献花台のうしろ二メートルほどのところにある壕で亡くなった百八十八人の学徒隊員の悲劇をお話ししようとしているとき、その壕から火炎びんが投げられ、献花台にバーンと破裂して焰と煙が吹出しました。妃殿下が供えられた花束が吹飛び、爆竹の音がいたしました」 壕のなかに潜んでいた赤ヘルと黒ヘル、タオルで覆面をした過激派の男二人が「天皇糾弾!」「帰れ!」などと叫び、火炎瓶や爆竹を投げつけたのだった。火炎瓶は夫妻には当たらなかったが、二メートルほどの距離で炎を上げた。源は言う。 「妃殿下が少しよろめかれ、殿下は後ずさられましたが、取乱したご様子はございませんでした。おつきの方たちがすぐお二人を抱えるように車へお連れし、私がそのそばへまいりますと殿下が「遺族会館で会いましょう」とおっしゃいました。あとでおつきの方に聞かされたのでございますが、お車に乗られるまで殿下はご自分の危険もかえりみず、「源さんはどうした、源さんを見てあげて」と気にして下さっていたそうでございます」 過激派の男らはすぐに取り押さえられたが、警備陣の重大なミスと批判された。男らは数日間、壕のなかに隠れていた。多くの若い女学生が自決した悲劇の戦跡ゆえ「聖域」視され、徹底したチェックができていなかった。のちに沖縄県警本部長が減給処分を受けた。 「一般の人たちにもけがはなかったか」と気遣いながら車に乗り込んだ皇太子夫妻はその後も予定を変えず、猛暑のなか魂魄の塔、健児の塔、黎明の塔、島守の塔の四カ所の慰霊碑を回って供花。平和祈念資料館、旧海軍司令部壕、遺族会館を訪れてから那覇市内のホテルに入った。 七月の沖縄は立ちくらみがするような暑さだった。皇太子の額には汗があふれていた。美智子妃のツーピースの襟元にも汗が光っていたが、二人ともハンカチを使わなかった。 「南部戦跡の「健児の塔」から「黎明の塔」にいたる三百九十七段の石段でも、ご夫妻は途中一度も休まれない。東宮侍従がさすがに心配して、声をかけるんだけど全然、相手にしないんです。遺族会館で三百人の戦争生き残りの人たちと会ったときも、冷房がないものだから、ご夫妻は汗でグショグショ、それでも最前列の五十人にひとりひとり声をかけて歩く」と同行記者の話が報じられた。遺族会館では予定に入っていなかったひめゆり同窓会の人々を呼び、昼の事件についてなぐさめた。 この日の夜、明仁皇太子は談話を発表した。沖縄入りの前日深夜まで外間守善らと内容を練っていたものだ。 過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、我が国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い、今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。 私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人々々、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません〔宮内庁発表資料抜粋〕。