上皇と美智子さま、二人の「画期」となった「1975年の事件」をご存知ですか…そこで起きていたこと
だんじょかれよしの歌声の響
翌十八日午前、皇太子夫妻は那覇新港から巡視船で沖縄北部本部半島の海洋博会場へ向かい、場内を視察した。このあと午後四時から名護市の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪れた。夕方でも日差しが強く暑かった。西日が差す園内で約六百人の患者、職員らが出迎えた。 夫妻は視覚に障害のある患者、病気で手の指が欠損した患者らの手を握っていたわった。このとき沖縄ではめずらしく「皇太子殿下バンザイ!」の声が上った。夫妻が園を去るため車に向かう途中、期せずして視覚障害の在園者らから沖縄の船出歌「だんじょかれよし」の合唱が起こった。「だんじょかれよし」は「まことにめでたい」という意味である。 後日、明仁皇太子はこのときのことを琉歌に詠み、愛楽園に贈った。 だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る(ダンジュカリユシヌ ウタグイヌフィビチ ミウクルワレガウミニドゥ ヌクル) 〈だんじょかれよしの歌声の響と、それを見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている〉 愛楽園の盲人会会長はのちに次のように語っている。 「おふたりがおいでになると、私が琉歌の解説をしながら、陛下〔明仁皇太子〕のご要望のままに5~6曲うたいました。最後に、お見送りにと私が、“ダンジュ カリユシの歌”という琉歌をうたい始めると、一斉に在園者たちの合唱となり、おばあさんの踊りまで加わりました」 夫妻は炎天下で流れる汗をぬぐいもせずに耳を傾けていた。在園時間は予定より四十分以上もオーバーした。「いちばん感激したのは、おふたりがわれわれ在園者の肩に手を置かれて声をかけられたり、握手までされたりしたことです。まさか、われわれと握手などされるとは思わなかったので、みんな涙を流さんばかりに感激していました」と盲人会会長は言う。 ハンセン病に対して根強い偏見と差別が残っていた時代である。夫妻の人間的な姿を目撃した人々は例外なく心打たれた。 愛楽園の人々は明仁皇太子の琉歌に節をつけて口ずさむようになった。そのうちに「曲を作ってほしい」という話になり、美智子妃が作曲することになった。美智子妃は友人の作曲家・山本直純に相談して曲を作った。山本は美智子妃の作った旋律には手をつけず、伴奏と前奏・後奏をつけて楽譜をまとめた。そして「歌声の響」として愛楽園に贈られた。 このとき山本から二番の歌詞の要望があり、明仁皇太子は新たな琉歌を詠んだ。 だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島肝に残て(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン ユウナサチュルシマムチニヌクティ) 〈だんじょかれよしの歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている〉 美智子妃も翌年の歌会始で愛楽園について詠んだ。 いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく ゆうなの花は沖縄の各地に咲く薄黄色の小さな花だ。美智子妃は沖縄でゆうなの花を見るのを楽しみにしていたが、花の盛りは六月下旬だった。愛楽園では亡くなった人々の遺骨を納めた納骨堂近くの片隅にゆうなの花が一、二輪咲いていた。初めてゆうなの花を見た美智子妃は「これがユウナの花ですね」と喜んだ。 明仁皇太子の「歌声の響き」二番は美智子妃の歌を思い浮かべて作られた。 十九日、厳戒警備のなか皇太子夫妻は海洋博開会式に臨んだ。明仁皇太子は次のような「お言葉」を読んだ。 「海はかつて幾多の生命をはぐくみ、人類にとって無限のものとして考えられてきました。しかし、海への依存がいよいよ増してきた今日、海は人類にとり、無限のものではなくなりました。豊かな抱擁力を持って人類に恵みを与えてきた海はその力を保ち得なくなってきました。〔略〕この国際海洋博覧会に世界の人々が集い、さんご礁の海をめでつつ、平和な海の実現を願い、海の未来をみつめ、考える機会としたいものと思います」