上皇と美智子さま、二人の「画期」となった「1975年の事件」をご存知ですか…そこで起きていたこと
帰京してからも…
開会式に出席し、会場内を視察したあと夫妻は同日中に帰京した。沖縄から戻ってすぐ、明仁皇太子は外間守善に「琉歌になりますか」と二首の歌を見せた。 ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて(フサケユルキクサミグルイクサアトゥ クリカイシガイシ ウムイカキティ) 〈木や草が深く生い茂っているそのあいだをめぐった戦跡にくり返しくり返し思いを馳せながら〉 花よおしやげゆん 人知れぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て(ハナユウシャギユン フィトゥラヌタマシイ イクサネラヌユユ チムニニガティ) 〈花をささげます、人知れぬ御霊に。戦争のない世を心から願って〉 外間は「摩文仁の戦跡地を巡られた思いを「くり返し返し思ひかけて」と結句されたのは、殿下の悲痛なご心中の飾りのない表白であったのだろう」と思った。「くり返し返し」という表現は、琉歌では慣用句になっていたが、明仁皇太子は「私の実感として、どうしても「くり返し返し」「思ひ」をかけたいのです」と言った。 木や草がふさふさと繁っているさまを沖縄方言で「フサケーユン」という。皇太子はそれを古典的琉歌語で「ふさかいゆる」と表現した。古典琉歌の作法通りだったことに外間は感心した。五七五七七の語句の短歌に対し、琉歌は八八八六の音から構成される沖縄独特の定型詩で、地元の人でも簡単に詠めるものではない。 「いつのまにそのような琉歌語を学ばれたのであろうかと私は不思議に思ったが、ふとした折にそれらの謎が氷解したことがある。しばらく後のことであるが、殿下が、ご自身の実感にふさわしい言葉の選択に難渋なさった時に、やおらノートを取り出されたことがある。なんとそのノートには、琉球国王の詠んだ琉歌が四十数首、びっしりと書き込まれていた。殿下ご自身でノートなさったものだということであった。琉歌の意味と用字用語、表記法の規範は、国王の琉歌にあるというご明察があったからのご学習だったのであろう。それにしても、三千余首の中から国王の琉歌を選り抜かれて、ノートに書き綴る殿下のご学習には頭のさがる思いだった」 沖縄初訪問はあらゆる意味で皇太子夫妻にとって画期となった。豆記者との交歓から始まった沖縄との関わりは、現地に足を踏み入れ、文字通り地に足がついたものになった。明仁皇太子の沖縄への思いはここからより深いものになっていく。 ハンセン病療養所への訪問は初めてではなかったが、「沖縄愛楽園」訪問は社会の片隅で日の当たらない場所にいる人々との触れ合いが次代の象徴として重要な役割だという確信を深めた。 そして、はからずも火炎瓶事件は皇太子夫妻の戦争と皇室の歴史に向き合う覚悟と真心、強さを示すことになった。日ごろ明仁皇太子に辛口の週刊誌も沖縄で見せた姿勢を称賛した。「“浩宮のパパ”とか“ミッチーの亭主”といった従来のイメージを振り切って、皇太子はよくやりました。意気ごみからして違っていた」「こういっちゃなんだけど、こんなに迫力、感動のある皇太子は見たことがない」という同行記者の言葉を紹介した。
井上 亮(ジャーナリスト)