福島から大阪へ避難10年・夫婦の思い「子どもたちはがんばってくれました」【#これから私は】
南相馬市原町区出身の夫婦、東住吉へ避難し10年
「あれから10年、私たち家族は大阪の友人や近所のみなさんのおかげでここまでやってこれました」と話すのは、大阪市東住吉区で鍼灸治療院を営む加藤大助さん(50)、清恵さん(46)さん夫妻。2011年3月11日、当時住んでいた福島県南相馬市原町区の自宅は大きな揺れに見舞われた。自宅から約23キロの東京電力の福島第一原子力発電所の事故を知り、子ども3人と着の身着のまま友人を頼り大阪へ避難し10年。加藤さん夫妻は「自分たちは必死で子どもにろくに説明もせず大阪へ来ましたが、文句ひとつ言わずがんばってくれたから今があります。感謝です」と感慨深げに話してくれた。 【拡大写真】大阪・東住吉の治療院が開業3年目を迎えた際の加藤さん夫妻
地元で鍼灸治療院開業、あの日すべてが変わった
福島県南相馬市で鍼灸治療院を経営していた大助さんは、清恵さんと娘3人、内科医をしている大助さんの父親夫婦の7人で暮らしていた。 大助さんは京都府の明治鍼灸大学(現・明治国際医療大学)卒業後、大阪の整骨院勤務を経て、地元である南相馬市の病院のリハビリ室での機能訓練や鍼灸外来を担当。当時、病院の受付をしていた清恵さんと出会い後に結婚し、2004年には、同市原町区にある大助さんの実家敷地内に治療院を開院した。 やがて3人の娘にも恵まれ、子育てに奮闘しながら幸せに暮らしていたが、東日本大震災の発生でその暮らしは大きく変わることになる。大助さんは振り返る。「あの日ですべてが変わりましたね」
激しい揺れ、妻の実家周辺は津波被害に
2011年3月11日、大助さんは鍼灸院の休診時間で横になっていた時、突然の激しい揺れに目が覚めた。清恵さんは自宅リビングで当時3歳の三女とすごしていたが庭へ避難。揺れがおさまってリビングに戻ると、大きな食器棚が倒れ、ガラスも散乱している状態だった。 同市内に住む清恵さんの両親とは連絡が取れず、清恵さんの実家付近では津波の被害があったと聞きた。大助さんが通れる道を探しながら1人車で駆けつけると、実家付近まで木材などが転がっているなど津波の痕跡を確認。避難所を訪ねても清恵さんの両親とは会えなかった。2日後に偶然出会えたことで無事を確認。しかし、父親の「黒い波が家の前まで迫り、2階に上がるのが精いっぱいだった」という言葉に恐怖を感じた。