福島から大阪へ避難10年・夫婦の思い「子どもたちはがんばってくれました」【#これから私は】
原発事故の一報、家族で避難も車のガソリン底つき混乱
そんな混乱の中、テレビのニュースで、大助さんの自宅から約23キロの距離にある福島第一原発で爆発事故が発生したという一報があった。そんな状況から大助さんは、清恵さんと3人の娘を連れ、車での避難を決断する。 宮城方面の道は地震により通れなかったため、福島市方面へ。しかし、車のガソリンはわずかだった。福島市内で給油を試みるも「千円まで」などの給油制限があり遠くに移動することができない。最寄りの避難所へ駆け込むも人があふれていた。 そんな時、福島空港(須賀川市、玉川村)のロビーが開放されていると聞き、少し離れていたが移動。その構内ではカバンを枕に子どもたちと横になり寝るなどした。 空港では臨時便に行列ができていた。大助さんは親類が静岡県内に別荘を持っていたことから「飛行機での避難」も考え徹夜で行列に並び、東京へのチケットを手に入れ、清恵さんと子どもたちを避難させて自分は実家に戻ろうと考えていた。 しかし、長野県北部地震も発生していたと聞き、清恵さんや子どもたちも怖かったためそれをあきらめざるを得なかった。
学生時代の友人からの「大阪でアパートをキープしたよ」
そんな時、大阪府に住む大助さんの大学時代の同級生の妻が「大阪でアパートをキープしたよ」と連絡をくれた。 大助さんは清恵さんらを新幹線で大阪へ向かわせた。ただ、2日以内に契約者本人がサインしなければ無効になるという連絡を受け、大助さんは実家へ戻ることを断念。再び空港の行列に入り、一日遅れで大阪へ向かった。 紹介してくれた大阪市住之江区のアパートは、風呂もなくガスも開栓していなかった。「住めるだけでもありがたい」と思ったが、子どもたちが辛そうな表情を浮かべていたため、友人が予約してくれたホテルや友人宅に泊まらせてもらう日々が続いた。
住む場所、働き場所を探してくれた友人たちの支え
すると、父親がマンションを持っているという同級生から「東住吉区内のワンルームマンションで隣同士の2部屋空いている」と声をかけてもらい、家族5人でそこへ引っ越しを決めた。 地震発生から約1週間、大助さんら家族は心底疲れたが、ようやく住居を確保できた。大助さんは「本当にありがたい話をいただいて、友人の支えがなかったら今はないかもしれない」と振り返る。このマンションでは約8か月すごし、後に別のマンションに引っ越したという。 清恵さんは、このマンションに落ち着くまでのことを日記に記していたが「すぐに思い出せないほど、色々ありましたね」と語った。 住居は確保できたものの、そこからが大変だった。娘3人は当時、上から9歳、7歳、3歳。時期は3月、大阪の学校への転校手続きも行わなければならない。そして、自身の仕事も探さなければならなかった。 「自宅近くのコンビニエンスストアのパート募集のはり紙を見て、すぐに働けるなら応募しようか考えたし、働ける場所を探そうとしていました。けど、友人が『鍼灸の仕事は、手を使わなかったら感覚がなくなってしまう』言ってくれたんです。その後、働き先を3~4か所世話してもらいました」と当時を振り返る大助さん。近所の人たちにも親切にしてもらい、娘たちの学校や幼稚園も無事に決まっていった。