「日本海の孤島・渡島大島」の噴火…「降灰まみれの悲劇」に見舞われた松前を、さらに襲った10m超の「大津波」の正体
昼夜がわからないほどの闇に襲われた松前半島
江戸時代は八代将軍徳川吉宗の治世の晩期、1741年、元号では寛保元年8月18日、津軽地方弘前一帯で有感地震が記録された。この地震発生とほぼ同じ頃、北海道南端に位置する松前半島の沖で噴火が起きているらしいことがわかってきた。 8月23日以降、松前半島の江差をはじめとする村落では、降灰により昼夜がわからないほど暗くなり、昼間でも行灯(あんどん)を使わなければ道の行き来もできない状態だったと伝えられている。大規模な噴煙が立ち上がり、噴火が激化していったようだ。 ちょうど旧盆の時期で、住民たちはふだんなら盆踊りに興じている頃だが、ひたすら噴火が鎮まるのを念じたという。しかし事態は思いもよらぬ方向へ展開していく。
噴煙に襲われた村々を、突如襲った大津波
8月29日明け方、突如として大津波がこの地域を襲ったのだ。家屋や船舶とともに多くの人々が流され、一部の村落は壊滅状態となった。 津波は渡島大島付近から日本海沿岸に広がり、各地に被害をもたらした。松前や江差では津波の波高は10mを超え、弘前藩沿岸、佐渡島、能登でも数m、若狭湾や島根、さらには朝鮮半島沿岸でも津波の到達を示唆する記録が残されている。その影響は日本海沿岸の広域に及んだ。 犠牲者数は松前藩が江戸幕府に注進した記録では1492人とされているが、これは松前に限定した数字だ。流出家屋についても791棟という数字が残るが、アイヌの村落も大きな影響を受けたはずで、実際の被害はこれらの数を大きく上回る可能性が指摘されている。
激変した島の姿
後に、この噴火により渡島大島の西側を構成していた山体がなくなり、北側に大きくえぐられたようなかたちに変わっていることが明らかになった。そのため津波の原因については、この崩壊地形との関係が憶測された。 渡島大島の噴火活動は山体が失われた後も断続的に続いた。松前や弘前は津波による大災害に加え、翌年まで降灰による影響も受けることとなった。また、渡島大島のかたちは劇的に変化したが、同時に大量の砕屑物の移動による周囲の海底への影響も考えられた。 山体が崩れた後の噴火活動では、新火口から流出した溶岩や爆発により生じた火砕物により、崩壊地形はしだいに埋まっていった。そしてついには新しい山体(寛保岳)が形成されるに至ったのだ。 その後の噴火活動は18世紀の間にわたり間欠的に発生し、噴煙が上がる様子がたびたび目撃されている。1741年の噴火と山体崩壊後も続いた噴火活動により、現在の渡島大島の姿ができあがったのだ(記事冒頭の写真)。
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