神技コントロールと必殺技を携えてボッチャ個人で史上初の金メダルを獲得した杉村英孝が伝えたかったメッセージとは?
ほどなくしてボッチャが、1988年のソウル大会からパラリンピックの正式競技に採用されていると知った。愛好者から一人のアスリートへ。大きく膨らんだ夢はロンドン大会の17位、リオ大会の5位をへて自国開催の今大会で大輪の花を咲かせた。 「ボッチャの競技を始めて約20年。こんなに素晴らしい舞台に立てて、しかも優勝して金メダリストにもなれて、自分でもびっくりしています」 競技歴を振り返りながら、込みあげてくる万感の思いに胸を震わせた杉村を支えた、針の穴を通すと形容されてもいいコントロールはその後もさえわたった。 例えば第2エンドの5球目。ジャックボールの真横にあった赤いボールを弾き、自らの青いボールを入れ替えるように寄せた絶妙のショットで劣勢をひっくり返した。相手ボールを巧みに利用して、自分が投げたボールを得点に近づける。繰り返される駆け引きにプレッシャーを感じたのか。ウォンサのショットにはミスが目立つようになった。 終わってみれば第4エンドまではすべてウォンサが先に6球を投げ終え、すでに1ポイントを確定させていた杉村が6球目を投げない「ノースロー」を選択。テクニックと知力を融合させた完封劇で、表彰台の真ん中に立った。 メインポールに掲げられた日の丸と、場内に流れる君が代に感極まった表情を浮かべた杉村は、首からかけられた金メダルを「ものすごく重みを感じます」と笑顔で見つめながら、団体戦で銀メダルを獲得したリオ大会後の5年間を振り返った。 「リオ大会以降はボッチャが全国で広がってきました。でも、そこで終わりにしてはいけないと思ってきました。東京大会でさらにボッチャの知名度を上げなくてはいけないと思ってきたので、個人でもこういう結果を出せてよかったです」 杉村の熱い思いに呼応するかのように、生中継したNHKで解説を務めた日本ボッチャ協会の新井大基さんが、杉村がジャックボールに青いボールを寄せるたびに連発した「ビッタビタにきましたね」がSNS上で大きな反響を呼んだ。 新井さんが「ビッタビタ」を介して伝えたのは、4kgほどの握力しかない杉村が努力と知力を駆使して自分の武器にした正確無比なコントロールの尊さ。杉村が金メダルに近づくたびに、新井さんの口調も「ビタチャンスですね」とヒートアップする。ツイッターでトレンドに入った「#ビッタビタ」もまた、ボッチャの普及を後押しする。 そして、東京パラリンピックにおける杉村の戦いはまだ終わらない。一夜明けた2日からは、4人で構成される男女混合チームで争われる団体戦が始まる。 日本代表「火の玉ジャパン」の一員として、杉村は、「気持ちを切り替えて、チームのメンバーと一丸となって戦いたい」と力強く語る。目標は、リオ大会の銀を超える金メダル。そして、それは自らを大きく変えてくれたボッチャへの恩返しにもなる。健常者や障害者だけでなく、老若男女を超えて楽しめる生涯スポーツである「ボッチャ」の魅力を日本中へ伝えるための戦いでもある。