日本人は集団主義? コロナ禍に考えるコミュニケーションの力
日本人は集団主義か
コロナ禍でもうひとつ気がついたことがある。 これまで、日本人は集団主義でいつも群れており、欧米人は個人主義で孤立に耐えられる、なんとなくそう考えていた。僕もそういう文脈でものを書いてきたところがある。しかし今回、欧米人が意外に孤独に弱く、絶えずバーやカフェやレストランでワイワイやっていないと生きていけないように思えたのだ。 だから欧米では、政府が強い権限でロックダウンを強行する。それでもそのことに反対してデモがある。マスクをしろといってもしない人たちがいて殴り合いも起きる。日本では、マスクも、ステイホームも、飲食店の営業制限も、また濃厚接触者の隔離や病院の患者受け入れさえも、すべて「お願い」ベースの自主規制で、政府の強い権限は発動されなかった。 つまり日本人は集団主義だというのは、孤独を恐れて常に群れているという意味ではなく、よくいわれる「同調圧力」が強く、政府も強い権限を発揮せず、国民も自己の意見を主張しないということであろう。それは「個人」と「集団」の問題というより、コミュニケーションにおける「主張」と「同調」の違いに帰するのではないか。そしてそれは言語の構造と、それによる文化の構造や社会の構造の違いによるのではないか、と考えた。
演説調の言語(文化)と命令調の言語(文化)
僕は海外で仕事をした経験もあり、英語でもそれなりのコミュニケーションが可能だ。理系の博士課程までいったのでドイツ語も勉強し、常に中国からの留学生がそばにいたので中国語も勉強した。 英語のもとは古ドイツ語であるから、これらは似ている。アクセントが強く演説調で、日本人からは、話者が意見を主張しているように感じる。フランス語の柔らかさやイタリア語のひょうきんさと比べてもそう感じる。日本語のように話(文章)の最後に何かをつけくわえて意味を曖昧にするようなことはない。敬語や丁寧語の表現もほとんどない。逆に日本語は直接的な意味以外の社会的立場を伝える部分が多く、彼ら(英米人やドイツ人)からは、イエス・ノーがハッキリしないという批判が出る。 また英語よりはドイツ語の方が論理的である。日本の熟語のように複合語が多く、もとの単語から意味を推察できる。スペルが分かれば発音ができる点は他のヨーロッパ言語と同じである。しかし英語はスペルと発音が一致せず、アルファベットが発音の記号としての役割を果たしていない。カリフォルニア大学バークレイ校で同じインターナショナル・ハウスに住んでいたクロアチアの言語学者は「世界最悪の言語が世界最強の言語になってしまったのは人類の悲劇だ」と皮肉まじりに嘆いていた。 中国語は、漢字(文字)を基本とする言語であり、いわゆる「てにをは」がないので、意味が強く伝わる代わりに、微妙なニュアンスが伝わらない。もともと象形の表意文字である漢字が強い放射力をもち、その言語も、日本人からは常に話者が意見を押しつけているように感じる。また意外に認識されていないことだが、中国語には命令文が存在しない。「食べる」というのと「食べろ」というのが同じ文章になる。強くいえば命令的になるのだが、中国語そのものに命令調の響きがある。 どの言語にも当てはまる発音の記号としてのアルファベット文化圏(現在は世界のほとんど)の「演説調の言語」と、文字記号そのものが意味をもつ漢字文化圏の「命令調の言語」の違いは、なにかとコミュニケーションの軋轢を生むもので、今の米中対立の根底にもそういった文化の違いが横たわっているのではないか。 日本語のように、中国から漢字をとりいれ、やまと言葉と、漢語をもととした熟語(明治以後、西洋の意味概念に漢語を当てたものも多い)を混ぜて使い、また仮名という発音の記号をつくり、主要な(強い意味を放つ)語には漢字を、補助的な語にはひらがなを、擬音語や外来語にはカタカナをと、3種類の文字を使いこなして、意味とニュアンスと用語の来歴までを伝えようとする文化は他にない。それだけでも日本文化はユニークで、異文化に同調しやすくまた逆に完全には同化しないという両面をもっている。いわば漢字文化とアルファベット文化に二股をかけているのだ。