【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 チームメイト・横山忠夫が語る"ミスタープロ野球"<後編>
横山 自分がしたことをしっかり覚えていれば、次に対戦する時に悪かったところを直せるし、相手の裏をかくこともできる。どうやって打たれたかなんて、俺は全然覚えてないから、また同じことをやられてしまったんだよね。性格的にも、プロには向いてなかったかもしれない。 ――横山さんは現在、池袋で『手打うどん 立山』を経営されています。2年前まで、立教大学野球部のOB会長をされていましたね。 横山 2017年春に立教大学野球部が59年ぶりに日本一になった時、決勝戦が行われる神宮球場に長嶋さんが急きょ来られることになったんだよ。 ――神宮球場はつくりが古くて、バックネット裏にある貴賓室までのエレベーターはありません。 横山 だから、俺の肩に手をかけて、マネージャーと3人で一段一段、上がっていった。祝賀パーティの時でもそうだけど、長嶋さんがそこにいるだけで雰囲気が変わる。やっぱりスーパースターなんだよな。 試合は立教が大量リードしていたから、バックネット裏のお客さんはみんな、長嶋さんのほうを見ていた。長嶋さんが笑うとみんなが笑顔になる。長嶋さんが貴賓室から手を振るだけで球場の空気がパッと変わったからね。 ――長嶋さんも、母校の優勝を喜んでおられましたね。 横山 そうそう。7回になって応援席から校歌が流れてきた。失礼だとは思ったんだけど、長嶋さんに「校歌を覚えてらっしゃいますか」と聞いたんだよ。長嶋さんが大学を卒業したのは1958(昭和33)年だろう? それから60年近く経っているし、なかなか校歌を歌う機会はないだろうと思ったからね。 長嶋さんは「覚えてるよ」と言って、大きな声で歌い始めた。あの時は驚いたし、感動したね......。 次回、田淵幸一編前編の配信は9/21(土)を予定しています。 ■横山忠夫(よこやま・ただお)1950年、北海道生まれ。エースとして網走南ヶ丘高校を甲子園初出場に導いたのち、立教大学に進学、その後ドラフト1位で1972年に巨人に入団した。1974年にはイースタンリーグで最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得。第一次長嶋監督時代の1975年には一軍で起用され、堀内恒夫に次ぐ8勝を記録した。1978年にロッテに移籍後同年引退。現在は東京の池袋で「手打ちうどん 立山」を経営している。 取材・文/元永知宏