【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 チームメイト・横山忠夫が語る"ミスタープロ野球"<後編>
横山 勝った負けたで一喜一憂するべきじゃないという考えだったんじゃないかな。1勝したくらいで「よく頑張った」なんて、きっと思わなかっただろうね。当時、巨人の先発ピッチャーなら15勝して当然という感じだったしね。 ――長嶋監督1年目の成績は、47勝76敗7分、勝率.382。スタートダッシュに失敗したチームは下位に低迷し、最後まで浮上することができませんでした。史上初めての最下位――ずっと栄光に包まれていた長嶋さんにとって耐えがたい屈辱だったでしょうね。 横山 長嶋茂雄という偉大な人が監督になったのに、圧倒的に負けのほうが多かった。王さんや堀内さんのように実績のある選手は「申し訳ない」という感じだったんじゃないかな。 一番、二番打者が塁に出て、王さん、長嶋さんで返すというチームの型が崩れてしまった。あの王さんでさえ、いつもより成績が悪かった(打率.285、33本塁打、96打点)。あの長嶋さんが監督なんだから勝たなきゃいけない、監督に恥をかかせちゃいけないという気持ちが強すぎたのかもしれないね。 ――ファンからの風当たりも強かったのでしょうか。 横山 それはそうだよ。本当にみじめな成績だったから。観客席までの距離が近い地方の球場では汚いヤジもたくさん飛んできたよ。 ――そんななかで横山さんは、エースの堀内さんに続く勝利数を稼ぎました。21試合に先発し、8勝7敗、防御率3.41。ほとんどの選手が成績を落とすなかで、自身最高の数字を残せた理由は何ですか。 横山 川上監督時代、二軍に落とされた時にコーチの中村稔さんに言われた言葉がヒントになったんだよ。「自分のボールに責任を持たないピッチャーは使わないと川上監督が言ってるぞ」と言われて、その意味を真剣に考えた。 それまでは「行先はボールに聞いてくれ」みたいな感じで力任せに投げていたんだけど、キャッチボールの時からキャッチャーが構えるミットを目がけて丁寧に投げるようになった。そのうちに体の開きがなくなって、コントロールもよくなったんだよ。 ――1976年、巨人は76勝45敗9分、勝率.628でリーグ優勝を飾りました。しかし、横山さんは14試合に投げて1勝4敗、防御率7.11に終わりました。長嶋監督に対してどんな思いがありましたか。 横山 長嶋さんの現役時代は全然ダメだったけど、監督になられてから少しだけ近づけたような気はしている。でも、1975年こそ少しは貢献できたけど、そのあとは全然......申し訳ないという気持ちと悔しさの両方があったね。 ――横山さんは1976年オフに巨人からロッテオリオンズに移籍。1978年限りでユニフォームを脱ぎました。 横山 引退して何十年も経ってから、堀内さんから「ピッチャーとして大事なものは勇気と記憶力だ」と聞いたんだけど、その瞬間、「俺には両方なかったな」と思った。確かに、堀内さんはものすごく記憶力のいい人で、きちんとメモも取る。どんなピッチングをしたのかを全部覚えているんだよ。俺は、いつも勢いで投げていて、終わった試合のことは全然記憶にない。 ――長いシーズンを戦えば、バッターを抑えることも、逆に打たれることもあります。成功したこと、失敗した場面を記憶していれば、次に対戦で活かすことができるということでしょうか。