「神が姿を変えているのか…」94歳“伝説の大道芸人”が人々を涙させた「あまりに神々しすぎる踊り」 病で体が動かない中、命を削って踊り続ける理由とは
能登半島地震によって甚大な被害を被った石川県輪島市。倒壊した建物やがれきが生々しく残る一角で、2024年7月、ひとりの大道芸人が一心不乱に踊っていた。芸歴55年、当時93歳のギリヤーク尼ヶ崎さんだ。 【写真を見る】思わず涙する人も…94歳の「伝説の大道芸人」が満身創痍で見せた「あまりに神々しすぎる踊り」 白塗りのメイク、長い白髪、赤と白の着物、数珠……。まるで、霊界と地上を行き来する使者のようないでたちである。実際に彼は、阪神・淡路大震災や東日本大震災の被災地、ニューヨークの同時多発テロの現場であるグラウンド・ゼロなどで、鎮魂のために踊り続けてきた。
披露するのは、津軽三味線の音に合わせた創作舞踏。だが高齢に加え、パーキンソン病など複数の病を患っているため、近年は車いすに座ったギリヤークさんを黒子が押す、というスタイルで踊りは行われる。 それでもこの日、自ら立ち上がったり、地面に倒れこんだりと、全身で思いを表現。終演後には花を手向け、静かに犠牲者を追悼した。 ギリヤークさんはこの翌月に94歳を迎えた。まだまだ現役である。名実ともに「伝説」の大道芸人が歩んできた道と、目指したいことを紹介する。
【写真を見る】思わず涙する人も…94歳の「伝説の大道芸人」が満身創痍で見せた「あまりに神々しすぎる踊り」(11枚) ■「鬼の踊り」から「祈りの踊り」へ 1930年、北海道函館でギリヤーク尼ヶ崎こと尼ヶ崎勝見さんは生まれた。小学生のときに太平洋戦争が始まり、海軍航空隊に入隊予定だったが、直前で終戦を迎える。旧制中学では器械体操に打ち込み、北海道代表に選ばれるほどの成績を残した。 スポーツだけでなく、文化芸術も愛した。幼いころから祖母に連れられて映画館に通ったギリヤークさんは、21歳で俳優を目指して上京。映画会社のオーディションを受けるも不合格が続き、たまたま新聞広告で目にした舞踏研究所に通い始める。
清掃、配達、警備員などの仕事をしつつ、舞踏家として大成を目指すも、思うようにいかない。そんなとき、知人の「大道芸人しかないな」という一言が転機となった。 38歳のときに銀座で大道芸人としてデビュー。「ギリヤーク族」という北方民族に顔が似ていることから、現在の芸名が付けられた。以来、日本全国はもとより、ニューヨークやパリの路上でも公演を行ってきた。 ギリヤークさんの芸の特徴は、なんといっても「激しさ」である。引き締まった肉体や長い手足をしならせ、衣装をはだけながら力強く躍動する。その様子から、彼の舞いは「鬼の踊り」と呼ばれていたが、1995年に阪神・淡路大震災の被災地で踊ったことから、「祈りの踊り」へと変化していった。