無痛分娩も帝王切開もできず、産後も苦行が続く…「多くの妊婦が死に至る」江戸時代の過酷な出産風景
■「妊娠5カ月目に腹帯」は伝統ある風習 さて、いまでも出産は大変な一大事だが、当時は麻酔による無痛分娩や帝王切開などないので、難産になると、その痛みや苦しみは想像を絶するものがあったろう。 そこで今回は、現代とは大きく異なる、江戸時代の出産について紹介しよう思う。 いまでも妊婦の多くは妊娠5カ月目に入ると、最初の戌の日に腹帯(岩田帯とも呼ばれる晒し木綿)を巻く。じつはこれ、江戸時代どころか、奈良時代に成立した『古事記』にも登場する伝統的な儀式なのだ。しかも、ほかのアジア諸国にもない日本独自の風習なのだそうだ。 では、なぜ妊娠5カ月目に腹帯を巻くようになったのかということだが、「体が冷えないように保温のためとか、妊婦を外の衝撃から守るためとか、戌の日に巻くのは犬が安産だから、それにあやかるため。さらには、帯を巻くことで妊婦としての自覚を持たせる。人びとが妊婦だとわかるように」など、諸説があるものの、残念ながら確実な由来や理由はわかっていない。 ■安産祈願の水天宮はもともと久留米にあった ちなみに東京近郊では、安産を祈願するため、戌の日に日本橋蛎殻町にある水天宮にお参りし、神社で祈願してもらったり腹帯を購入する人が多い。地下鉄半蔵門線の駅名にもなっているので、水天宮の名を知っている方も多いだろう。 もともと水天宮は、安徳天皇ら平家一門をお祀りする神社として久留米(現・福岡県久留米市)にあった。江戸時代になって、この地を支配するようになったのは有馬氏だが、第九代久留米藩主・頼徳のとき(文政元年・1818)、水難除災の神として藩の上屋敷(現・港区赤羽橋)内に水天宮を勧請した。 これを知った江戸っ子が参詣を願い、塀越しに賽銭を投げ込む庶民も続出したため、久留米藩では毎月5日に人びとの参拝を認めるようになったのだ。 その後、ある妊婦が社殿に使われた鈴の緒をもらって腹帯としたところ、非常に安産だったことから、戌の日に水天宮から腹帯を授かり、妊娠5カ月目の戌の日に帯として巻けば必ず安産となるという信仰が広まったといわれる。 なお水天宮は明治5年、新政府が大名の藩邸を没収したので現在の地に移された。 じつは、同じように大名屋敷に勧請された神社を一般開放する藩は少なくなかった。たとえば丸亀藩の金刀羅宮、西大平(現・愛知県岡崎市大平町)藩の豊川稲荷、仙台藩の鹽竈神社、柳川藩の太郎稲荷などがそうだ。開放することで賽銭の収入がかなり入ったからだろう。