有名人に学ぶ「美しい最期」の迎え方…重要なのは誰かに「命のたすき」をつなぐことだった
桂歌春が語る“桂歌丸”という人物
「みなさんご承知の、あの細い体ですからね。亡くなるまでの数年間は本当に苦しかったと思いますよ。師匠は入退院を繰り返していましたが、入院しているときはただの病人。少ない髪がボサボサで、ヒゲも伸びて顔つきは暗い。落語に出てくる死神のような風貌でした(笑)。 でもね、師匠は使命感を持っていたから決して弱音を吐きませんでした。落語は日本の伝統文化だから、しっかりと後世に継いでいかなければいけないという使命です。自分の老い先はもう短いかもしれないが、ひとつでも多くネタをやってこの世を去りたいと思っていたので、晩年も不思議なほど生き生きとしていたんです」 しばらくの間入院しても、歌丸さんは退院の日が決まると「よし、じゃその次の日から高座にのぼるよ」とすぐに準備をはじめたという。 「高座の座布団に座ると、ベッドで寝ていたあの姿がウソのように元気になる。あれは本当に見事でしたね。最期の瞬間まで何かをやり遂げてやるという意志を持って生きる人は強いな、と思いました」 そんな歌丸さんは、亡くなる3ヵ月前にある偉業を成し遂げた。 「国立演芸場という大舞台で、50分もある『小間物屋政談』という大ネタをやったんです。鼻に酸素チューブをつけたままで座布団の上に座り、まず『酸素がない苦しさは、おカネがないより苦しいんですよ』とくすぐりを言ってお客さんを沸かせる。病気だからこその笑いの取り方もあるんだってことを教えてもらいました。 声のハリこそ全盛期には及びませんが、気迫がすごいもんだから、お客さんも聴き逃すまいと前のめりになる。あの大舞台を包む緊張感で師匠の寿命は少し縮んだかもしれませんが、ひとつの目標に向かって命を燃やすというのはこんなにも格好いいことなのかと身震いしましたね。弟子たちはみな、その姿を目に焼き付けていました」 自分の人生に使命を見出し、最期の瞬間までその役目を全うしようとした歌丸さんの死は、一門や落語界のみならず、広く「見事な最期だった」と語り継がれている。 家族や友人、病院の人にできるだけ面倒や心配をかけずに逝きたい―そう思っている人も少なくないだろう。しかし、俳優の原田芳雄さんの最期を知ればその考えは変わるかもしれない。