「銃の民主主義」 アメリカ大統領選挙がわたしたちに教えたもの
「銃の民主主義」
そんな大統領選挙であっても、アメリカが民主主義国でないとはいえないだろう。世界でもその手本のような顔をしてきたし、戦後日本がモデルとしてきた国なのだ。ひょっとするとこれこそが彼らの考える民主主義なのかもしれない。われわれが誤解していたのかもしれない。 日本人は、民主主義といえば、何か穏健な、順法精神に富む、平和的なものと考えていたが、逆に、権力者が決めた法が悪ければ、一般民衆が武力によって権利を主張することも、民主主義の一面であるかもしれないのだ。考えてみればフランス革命もアメリカの独立も武力の産物である。 アメリカの民主主義は、街の人たち(農場主を含め)が金を出し合って保安官を雇うことから始まったという説がある。民衆がそれぞれ勝手に自衛するのでもなく、州や連邦といった大きな権力に頼るのでもなく、自らの力で半ば公的な武力機関をつくるのだ。自らの力によって荒海を渡り、自らの力によって土地を獲得し、自らの力によってイギリスから独立し、自らの力によって安全と繁栄を確保する。アメリカ人はまさに「自力」によってここまでやってきたのだ。「銃の民主主義」といってもいい。 もちろん民主的な手続きによって選ばれた民主的な権力ならそれに従うべきなのだが、権力は必ず腐敗するというのも真理であり、ある権力下においては民主的な手続きが機能しなくなるケースも出てくる。そういった場合アメリカでは、民衆の銃によって民衆の正義を獲得する手段が残されているのである。公権力に従うばかりが民主主義ではないのだ。 そう考えれば、ミリシアの存在理由も、銃規制が進まないことも、理解できないわけではない。サムライは滅びたが、ガンマンは滅びていないのである。
与えられた民主主義=「家の民主主義」
戦前の日本で民主主義が意識されはじめたのは、吉野作造の民本主義も含め大正デモクラシーの時代であったろうが、まもなく昭和初期の軍国主義時代に突入して、社会の底辺に浸透するいとまがなかった。そして敗戦のあと、日本に民主主義をもたらしたのはまさにそのアメリカであった。しかもヒロシマ・ナガサキというおどろくべき武力行使の結果である。 日本の民主主義は、自らの力によって勝ち取ったものではなく、逆に相手の力によって、大きな犠牲を代償に、与えられたものであった。その民主主義は、与えられたものだけに、この国独特の「家社会」に接ぎ木されるようにして浸透していった。いわば「個人」が確立されていない「家の民主主義」である。しかもその背後には常に、アメリカの「銃の民主主義」が控えていたのである。 僕は、日本文学の中の住まいの表現として「家」と「やど」の二系統があり、「家は制度の空間」であり「やどは逸脱の空間」であるという文化論を書いた。日本社会は「大きな家=国家」「小さな家=家族」その「中間の家=企業、官庁」などで構成された「家社会」である。公的な選挙においても、家長の意見は強く反映され、企業ぐるみの選挙活動も多く、地方選挙では市役所が「一家」と呼ばれるほどまとまる自治体もある。自民党の総裁選びも、派閥が絡み、親分子分、義理人情、そして何らかのかたちで利権が絡む。 つまり政策よりも「家」の論理で政治リーダーが決められるのだ。天から与えられたものを尊ぶことや、国家という大きな家の感覚は、天皇制とも関係している。この他国に例のない文化を守り、ほとんど政権交代がないというのは、かなり特殊な民主主義といわなければならないだろう。 「いじめ、ひきこもり」といった現象も、その家的社会への不適合の問題だろう。アメリカに比べ、たしかに表面的には穏和であるが、裏には忖度や同調への陰湿な圧力がはたらく。いざとなると大陸の人は国外へ逃げ出すが、日本人にはその感覚がない。この列島が世界なのだ。しかも近代民主主義社会は「やど=逸脱の空間」を、家的(制度的)な管理下におこうとするので何か息苦しい。 「家の民主主義」は穏健ではあるが、自殺者が多いのも事実である。