日本の木造モダニズムの先駆けにして、都市型小住宅の原型。〈土浦亀城邸〉が現代に甦るまで。
土浦亀城は、1918年(大正7年)に東京帝国大学工学部建築学科に入学。在学中、帝国ホテルの現場の図面作成に携わり、フランク・ロイド・ライトと出会う。大学卒業後に妻・信子と共に渡米。ライトの事務所、タリアセンで約3年間働いた後、帰国する。 ライトの事務所の同僚には、のちに〈カウフマン邸(砂漠の家)〉などを手がけるリチャード・ノイトラがおり、ノイトラと親しかったルドルフ・シンドラーからも欧州のモダニズムについて学んだという。世界へと目を向け、帰国後もオープンカーに乗ったり、自宅でダンスをしたりしたという逸話からは、華やかなモダンボーイのイメージが浮かび上がる。だが土浦は「真面目で実直な建築家だった」と安田さん。 「もちろん当時としては先進的な、“モダンボーイ”だったんでしょうけど、土浦邸の調査を通じて思ったのは、物をとても大切にされていたし、無駄なものを持ち込まず、シンプルに暮らすことを心がけていて、いたって真面目」 何よりも、建築家としての「実直さ」、そして頑固さは、驚くばかりだと言う。 「土浦邸は1辺が24尺の立方体で、全体が2尺と3尺のグリッドシステムで構成されています。そのシステムを追求するために、柱すらズラしている。普通はここまで徹底しない。できない。建築家はみんな理想を追い求めるんですけど、現実の壁を前に引き下がらずをえないこともある。でも土浦はこの家の設計において、一歩たりとも引き下がっていない。相当な頑固ですよ。この家は、彼が理想を常に追い求めていた人だったということを、立証していると思います」
土浦の頑固なまでの徹底ぶりを安田さんが感じる部分には「建物も家具もエッジをすべて丸くしていること」もある。 「外壁もそうなのですが、内部は特に、全てにおいてエッジはアール。なぜ、土浦は全ての角を丸くしたのか。それは、ヒューマンなモダニズムを求めていたからではないでしょうか。そこを曖昧にせず、徹底している。だから空間が優しく感じられる。僕も建築家として頑固なところがありますが(笑)、ここまでやりますか、と。でも、物を作る人にとって、曖昧にしない、ブレない、って大事です。この家に90歳を超えるまで住み続けたんだから、その信念は生涯変わらなかったのでしょう。自分が追い求める理想に、確信を持っていたんだと思います」