「工場閉鎖、業績悪化、がん発症…」老舗帽子メーカー4代目社長が大手企業を退社し右肩下がりの業界に入った訳
佐藤さん:全国から集まる選手たちは、ラグビーに人生を懸けて、自分たちに誇りをもってプレイに向き合っている人たちばかりです。そんな、甘えたことを言っていられない場所に身を置くことで、自分を変えられるのではないかと思いました。 実際に、彼らのプレイへの向き合い方を目の当たりにして、こんなにすごい人たちの世界にいさせてもらえることに、感謝しなければならないと思いました。だから、最後までやりきろうと思えたのだと思います。
■まったくの異業種から家業を継ぐことに ── 大学卒業後は、帽子業界とは無縁の大手企業に就職されました。そこから家業を継いだきっかけは何だったのでしょうか。 佐藤さん:三姉妹なこともあり、両親は子どもたちに家業を継いでほしいとは思っていなかったようです。私も、大手企業で充実した日々を過ごしており、継ぐことはまったく頭にありませんでした。 でもある日、母から業績悪化や跡継ぎがいないことで父が悩んでいることを聞きました。帽子メーカーは年々、廃業数が増加し続けています。父も、業種を変えて会社を経営した方がいいのかもしれない、と悩んでいたんです。
父はうつ病や心筋梗塞を経験しながら、家業を守ってきました。そして、専業主婦だった母は、いちから縫製を勉強して、レディース物を展開することで経営を支えてきました。そんな幼いころから見てきた両親の姿を思い、家業を継ぐことが自分の宿命だと決意をしました。 両親は、せっかく大手企業に入れたのに、と戸惑っていましたが、私の決意が揺らぐことはありませんでした。 ── 2013年に入社されました。実際に入社してみて、会社の状況はいかがでしたか。
佐藤さん:2011年の東日本大震災で、福島県にあった自社工場がすでに閉鎖していました。関東近郊の職人さんたちも、60代から80代の方ばかり。周りを見渡せば、他社も同じような状況です。これだけ生産力が乏しい業界だという現実に驚いたことを覚えています。 でも自分から動かないことには、状況が改善されることはありません。2017年には、福島県の工場を撤退し、本社に縫製部門を設けて職人を新たに雇いました。また、2019年には、生産を一部委託していた和歌山県の工場が廃業することになり、事業譲渡を申し出、生産力の確保につなげました。