日本初の医学舎を設立、写真研究と徳川慶喜とのつながり…幕末の知られざる偉人・明石博高が為した功績の礎
■ 明石による京都医学研究会・煉眞舎の設立 明石博高は、西洋医学と称しながらも、多くが旧態依然とした漢方医流に過ぎないことを憂いた。そこで慶応元年(1865)、津藩医師の新宮凉閣・新宮凉民、幕府医官の柏原学介、儒医の桂文郁と相談して京都医学研究会を設立したのだ。 これは、日本における医学舎の最初である。なお、慶応3年(1867)、京都医学研究会の会員は手分けをして有馬温泉などを調査分析して、成分効用などを初めて究明している。 慶応2年、明石は自宅で理科学研究会・煉眞舎(れんしんしゃ)を主宰し、理化学・薬学を研究した。明治2年(1869)に至り、京都府御用掛の三井源右衛門の別邸で例会を開催した。この時、三井も明石と懇意となり、その講義を聴講することになった。 京都府参事の槇村正直は三井から明石の話を聞き及び、自ら煉眞舎例会に出席して、明石の講義・実験を聴講することになった。槇村は明石と京都新文化を興隆させることで意気投合したため、明石に京都府出仕を促し、明治3年(1870)に実現したのだ。 明治元年(1868)、明石は錦小路頼言に建議し、御所内病院(烏丸一条下ル、施薬院三雲宗順宅)を開設し、医務を担当した。そして、鳥羽伏見の戦いの戦における傷者救済(応急処置)を行なっている。明石の明治維新前後の活躍は、特に医学において顕著であったのだ。
■ 明石の写真研究と徳川慶喜 文久年間(1861~1864)、明石は写真の研究を開始している。化学・製薬術・測量術を学んでいた辻礼甫の指導を受けながら、明石は洋書を参考にして暗箱を製作した。しかし、明石をもってしても、この段階では不完全なレベルに止まった。文久3年(1863)、一橋(徳川)慶喜が上洛した。詳しい経緯ははっきりしないものの、明石は慶喜にオランダ製写真機の取り寄せを依頼しており、それが実現して、ようやく写真撮影を自身の手で実現できたのだ。 明石が慶喜との関係を築けたのは、おそらく、一橋家お雇いの京都在住の写真家である亀谷徳次郎(他に中島鍬次郎も慶喜お抱え)と京都の写真研究者である明石・辻が懇意であったことに起因しているのではなかろうか。その縁で、明石がオランダ製写真機を所望し、亀谷が慶喜の許可を得て師匠の長崎在住の上野彦馬に依頼し取り寄せた可能性を指摘したい。 なお、慶喜の侍医であった柏原学介は明石の師であるため、柏原から慶喜に推薦があったかも知れない。いずれにしても、幕末期に、明石と慶喜がどれほど懇意かを証明することはできないものの、慶喜のカメラ好きは明石との関係性を匂わせる事実として重要ではなかろうか。 なお、京都舎密局時代、明石は京都や奈良の風景を幕末期から撮りためていたが、そのすべてがガラス板写真であった。明石はそれらを紙焼きして写真帳を作成した。そこには、神社仏閣などの名所旧跡の当時の様子が分かるだけでなく、五条板橋、嵐山の鉱泉浴場、南山城の童僊(仙)房という開拓地の写真など、歴史的、風俗的な観点からも貴重な記録写真が多数含まれている。明石の写真帳は、極めて歴史的価値が高いのだ。 この明石の写真帳は、なんと明治天皇の閲覧に供するとともに、慶喜や岩倉具視・三条実美にも献上されている。しかも、岩倉からの礼状が今も存在していることは驚きである。写真家明石博高の、面目躍如といったところであろうか。 次回は、明石の幕末期の志士たちとのネットワーク、具体的には梅田雲浜、頼三樹三郎、平野国臣について紹介し、そして、明石の「殉国志士葬骨記」について詳解して、特に平野との関係が強かったことを紐解いてみたい。
町田 明広