「二流扱いだった日本車」そのイメージをくつがえし米国で愛された和製スポーツカー。初期モデルは今や数千万円…【名車探訪Vol.13】
排ガス問題や急速な円高、歴史の流れに翻弄されて変貌を余儀なくされたZ
日産のレース活動にも、片山氏は貢献している。彼が入社した1936年には、750㏄エンジンに英国製のスーパーチャージャーを装着したスーパーダットサンが国内のレースで優勝するなど、日産にはもともとモータースポーツへの取り組みはあった。ただし、川又氏を始めとする戦後の経営陣は、必ずしも熱心だったわけではない。しかし、根っからクルマ好きの片山氏は宣伝課員としてモータースポーツの宣伝効果を力説。1958年にはオーストラリア一周ラリーに2台のダットサンを送り込み、クラス優勝と同4位を獲得して世界に日産の名を広めたのだ。1963年の第一回日本GPでは、SP310型フェアレディが輸入車を抑えて優勝。1964年の第二回でプリンススカイラインGTがポルシェ904を一周だけだが抑えてトップを走ったことで、日本のモータースポーツ熱は最高潮を迎えた。海外でも、1966年にはサファリラリーでブルーバード410型がクラス優勝。1970年には、ブルーバード510型3台が1-2-3を飾って完全優勝をも果たしている。 フェアレディZはその翌年のサファリラリーに早くも登場。1-2フィニッシュを決めるのだ。ただし、プリンスが開発し、スカイラインGT-Rに積まれて日本のサーキットでは無敵を誇った例のDOHCは、432を名乗ったフェアレディZでは活躍することができなかった。もともと180PSを絞り出しながら、じゃじゃ馬過ぎて160PSまでデチューンされたそれは、アメリカの豪快なサーキットレースや欧州のタフなラリーでは神経質すぎた。シンプルなメカで部類の耐久性を誇ったSOHC2.4Lを積む240Zのほうが扱いやすく、フェアレディZとの相性も良かったのだ。商品企画を通す上では重要な役割を演じたS20型エンジンは、そうして短命に終わってしまった。 一方、激動の1970年代は、フェアレディZの立ち位置にも大きく影響した。1971年の為替自由化で、それまで360円だった円/ドルレートは急速に円高に振れ、値上げを余儀なくされた。1972年のオイルショックで燃費のいい日本車が注目されたことで一時はしのいだが、続く排ガス規制ではパワーダウン対策に排気量も拡大され、2.4Lは最終的に2.8Lまで肥大した。その後も円高は続き、気がつけば北米でのフェアレディZは登場当時より2クラス上の価格になってしまった。結果、モデルチェンジのたびに豪華・高級路線に走らざるを得なくなり、初代とは違うクルマへと変貌していったのだ。