「二流扱いだった日本車」そのイメージをくつがえし米国で愛された和製スポーツカー。初期モデルは今や数千万円…【名車探訪Vol.13】
社内では少数派だったスポーツカー好きの情熱が生んだZ企画
日産は、1914年に日本初の国産乗用車、脱兎号を生み出した快進社にルーツを持つ。その意味では自動車に魅せられたエンジニアのDNAを受け継ぐが、Zの開発当時の川又社長は銀行出身の合理的な経営者。ことさらスポーツカーへの情熱に理解があったわけではない。 しかし現場には、スポーツカーを夢見て自動車メーカーに入社した人々も数多くいた。宣伝課員として1935年に入社した片山豊氏や、1959年に入社した若手デザイナー、松尾良彦氏らはその代表だ。片山氏は、自動車業界振興のためのイベントとして全日本自動車ショーの開催を呼びかけた人物でもある。先のDC-3も、その話題作りの一環として、彼が作らせたスポーツカーだった。 彼は1960年に市場調査を命じられて渡米すると、現地法人を設立。その土地の実情に合ったモデルやサービスを提供することをトップに進言。さらに設立された米国日産の社長に1965年に就くと、「この市場で成功するためには、デトロイトが作っていない、高性能で快適な小型スポーツカーが必要だ」と本社に強く要望した。 本社ではそのころ、松尾氏がSR311後継車の先行デザインを始めていた。メカニズムは、本来はバキュームカーなどの特殊車両を担当する第三設計課が検討しており、ともに片山氏の意見に強く賛同した。ただし、この段階では具体的な企画ではない。話が動きだすきっかけは、1966年のプリンス自動車との合併だった。プリンスが開発したR380用の2L直6DOHCを何に積むか検討される機会に、スポーツカーの開発を夢見ていた彼らは「次期フェアレディこそ、それにふさわしい」と温めていた企画を役員会に諮り、見事に通したのである。 開発記号はたまたま空いていたZ。それを片山氏は気に入り、自身が好きだった旧日本海軍の信号旗、ミニチュアのZ旗を送ってチームを応援した。その意味は全員奮励努力せよ=がんばれ!」。そうしてフェアレディZの名は、片山氏と松尾氏が狙った通りのデザインとともに決まったのだ。 発売されたZは、国内はもちろん、とくに北米市場で爆発的な人気を博した。国内向けの2Lに対して2.4Lに拡大された直6エンジンは、軽量コンパクトで流麗なボディを軽々と走らせ、「ポルシェの半値で同等の性能」と評された。以後、毎年5万台前後という空前の売れ行きを見せる。北米で片山氏は「Zの父」と呼ばれ、1998年に米国の自動車殿堂入りを果たしたほどの人気だった。