遠征帰りは耳や鼻の穴が真っ黒…1日2勝は2度・小山正明さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(38)
プロで駆け出しの時分に、エースの梶岡忠義さんや真田重蔵さんにアドバイスをもらった。コーチがたくさんいる時代と違います。先輩たちが適切な助言をしてくれた。これも感謝ですね。「小山、シーズンオフに田舎に帰ったら走れるだけ走れ。走ることだけ考えてオフを過ごせ」。寒風の中、県道を走りました。母校の高砂高(兵庫)近くに加古川が流れていて、その橋の欄干にタッチして帰ってくる。片道が15キロ。そこを持久走で毎日走った。それによって、ますます球に力が出てきた。今の選手は自分の練習メニューを自分でようつくらない。コーチのメニューをこなしたら練習ができたなんて、とんでもない話ですよ。人と同じ事をやってたんでは、人の上には行けない。 昭和36年(61年)のシーズンを思い出す。阪神で11勝22敗なんです。すごい数字ですよ。そこまで投げたと言うことです。防御率が2・40。(60年は2・36で25勝19敗)。全然点が取れなかったんです。数字が逆になっていてもおかしくない。そういうシーズンも過ごしました。別に調子が悪かったわけではないんですよ。阪神は打てなかったが(64年に移籍した)オリオンズはよく打った。負けそうなゲームでも打って勝ってくれた。阪神ではあんまり経験なかった勝ち方もしました。
▽完投勝利は投手の勲章。今の子たちは全く感じてない 時代が時代とはいえ、どんなふうになっていくのかな。お客さんは先発完投投手を見に来たものですが、最近は完投できる投手がいても、肩は消耗品だといって、させません。何でここで投手を代えるんやというのが、多々あるからね。ことあるごとに1イニング刻みで投手が出てきます。こんなもの見てて何が面白いんですか? 投手の品評会じゃないんですよ。完投勝利を収めるというのは投手の勲章。今の子たちは全く感じてないと思いますね。だから誇りも何にもないと思います。どれだけ打たれても勝ったら喜んでいる。だから甘いんですよ。湯につかって野球をやっているというかね。ノックアウト食らってベンチに帰ってきた投手に拍手なんて。えらい時代がきたもので、この先どうなるのかなと思いますね。 × × × 小山 正明氏(こやま・まさあき)兵庫・高砂高からテスト生で1953年に阪神入団。緻密な制球力とパームボールを駆使した。62年は27勝でリーグ優勝に導き、沢村賞に輝く。山内一弘との「世紀のトレード」で東京(現ロッテ)に移籍した64年は30勝で最多勝。同年8月に名球会入り条件の200勝に到達。73年の引退までに320勝と3159奪三振を積み上げた。34年7月28日生まれの89歳。兵庫県出身。