遠征帰りは耳や鼻の穴が真っ黒…1日2勝は2度・小山正明さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(38)
▽「あのおじい、何ぬかしとんねん」と言われても構わない 当時の交通機関では当日移動で試合ができるということはあり得ませんでした。(阪神入団当初の1950年代は)東京―大阪間が8時間。月曜日と金曜日が移動日でした。そのため日曜日がダブルヘッダーです。僕の320勝の中にダブルヘッダーで2試合とも勝利投手になったというのは確か2回あるはず(1960年と68年)。最初のゲームにリリーフして、次の試合に先発するとか。こういうものに耐えてきているわけですよ。何で耐えられたかというと、球数を投げ込んで練習を積んできているからです。とても想像もできないでしょう。今は6、7回投げると次の日はベンチに入らない。1週間のちに出てくる。僕の感覚で言わせれば、完投して1週間も休んだら、おかしくなってしまう。球を投げるリリースの感覚がなくなってしまう。 広島にナイター設備ができたのが昭和32、33年かな(広島市民球場が1957年に開場)。甲子園が31年だから、その後だったですよね。広島の球場は昔の広島空港から市内に入って行く間にあった(広島市西区)。それまでは全部デーゲーム。夏なんかカンカン照りですよね。広島から次は内陸に入った三次市へ木炭バスで行った。その後は呉市の球場で、呉から帰るのも蒸気機関車。今みたいにクーラーが利いてないですよ。暑いから窓を開けると、トンネルで機関車のばい煙が舞い込んだ。神戸に着いたら耳や鼻の穴が真っ黒けです。
夏の甲子園大会の時にタイガースは「死のロード」。東京に出て、上野から列車で北海道へ。日本旅館で8畳の部屋に4人でした。こう言うことをしゃべっても一笑に付されますけど、今は伊丹空港から2時間、行った先は一流ホテル。あまりにも環境に恵まれている。われわれは考えてもみなかったことです。 声を大にして言いたい。各球場、お客さんで膨れ上がっているが、それまでにどれだけの先輩たちが苦しい環境の中で日本のプロ野球を支えて、今日を築いてきたか。こういう話は、ぼやき節になってしまう。そうならざるを得ないですよ。こういう記事を今の選手が見たら、あのおじい、何ぬかしとんねんとなる。言われても構わない。環境に甘えすぎですよ。 ▽人と同じ事をやっていては、人の上には行けない 僕は健康な体を、まず親に感謝しないといけない。11歳で終戦になりました。日本列島に物がなくなって、特に食料難に遭遇しました。実家は小作の人に田んぼをやらせて、年貢で米が出ていました。それが農地改革で、うちはポシャってしまった。米の代わりにサツマイモ。メリケン粉を練った「すいとん」も。おやじが一言「こういう状況だけども我慢しろ。おまえが成長したら、とにかく食べ物だけは許す限り、ぜいたくしていい」。いまだに耳にこびりついてます。そこそこタイガースで給料をもらえるようになったものの、余裕なんてない。その中で食べ物には貪欲になって、食を楽しむというのが多かった。