“ゼロ円移籍”でファンから反感…J助っ人も異議「なぜ2部に行くのか」 移籍金を残せなかった真相告白【インタビュー】
元日本代表MF細貝萌の半生、浦和からドイツ2部への移籍で批判を浴びた
2024シーズン限りで現役を引退したザスパ群馬の元日本代表MF細貝萌は、キャリアの中で6シーズンにわたってヨーロッパでプレーした。そのスタートにあたっては、多くの批判も浴びJリーグの外国人選手から疑問も呈された。しかし、その決断には今ではスタンダードになりつつある、欧州の市場へ身を置くことの重要性が早くから頭にあった。(取材・文=轡田哲朗/全6回の2回目) 【写真】日本代表が交際宣言した元トップアイドル 「色気がすごーい」最新ショット ◇ ◇ ◇ 2008年の北京五輪で3連敗での敗退を喫し、自身の成長のためにも海外でプレーすることへの思いが強くなっていた。細貝は前橋育英高校卒業後の2005年から所属している浦和レッズに「入団当時から海外に行きたい気持ちがあると言っていた。特に1年目なんかは『試合にも出られないのに何を言っているんだ』となるのが当たり前の現実的ではない中でも、活躍してチャンスがあれば行きたいと伝えていた」のだと話す。 選手層が厚いことを覚悟で入団した浦和で出場機会を増やすなか、2010年の南アフリカ・ワールドカップ(W杯)を終えて就任したアルベルト・ザッケローニ監督から日本代表に招集されるようになった。それは、胸の中に秘めてきた思いを行動に移す大きな転機になった。 「僕自身はヨーロッパでサッカーをしたいと思っていた。今はヨーロッパに行ってから日本代表に入る選手もいると思うけど、僕らの時は日本代表にならないとヨーロッパに行けなかった。浦和でプレーしていた時、代理人とは『日本代表に呼ばれなければヨーロッパには行かない』と話していたし、日本代表選手になってからヨーロッパに行くべきだと言っていた。2010年に初めてA代表に呼んでもらったことで、自分の中でヨーロッパに挑戦していい権利をもらったのかなと思った」
覚悟の単年契約「複数年のオファーを浦和から毎年もらっていた」
そして、2010年の年末にドイツ1部レーバークーゼンへの移籍が発表された。それまで浦和から海外移籍した選手が、移籍金を残すことに言及したことがあったこと。当時の日本サッカー界に「ゼロ円移籍」という言葉が有名になってきたこと。それと同時に浦和が細貝のレギュラー獲得後にタイトルから遠ざかっていたこともあり、批判は大きかった。 「すごく反発もあった。まずは移籍金が出ない状況で移籍したこと。複数年のオファーを浦和から毎年もらっていたけど、それで大怪我をしたら将来がなくなるのも覚悟で最後の数年は毎年、単年の契約で進んでいた。なので移籍金を残せなかった。ただ、移籍金を残す状態であれば、僕の能力ではヨーロッパに挑戦できなかったと思う。ヨーロッパに挑戦したい、日本語ではない文化、育ってきた環境も違う中に行くことに魅力を感じた。とにかく、僕としてはヨーロッパに行きたい気持ちが強かった」 理由の1つには浦和での経験もあった。ギド・ブッフバルト、ホルガー・オジェック、ゲルト・エンゲルス、フォルカー・フィンケといった浦和で指導を受けた監督たちの共通点が、ドイツ人であること。「どちらかと言えば、自分でもヨーロッパの方が生きるというのを浦和でプレーした最後の方に思ったこともあった。ドイツ人の監督が求めること、日本人選手に求めることが僕自身にマッチしていた。もしかしたらヨーロッパの方がやりやすいのかなと思ったこともあった」と話す。 しかし、レーバークーゼンとの契約は「ボランチがとにかくたくさんいた。ミヒャエル・バラックもいましたからね。その中に入っていくのは厳しいと。最初から、契約するけどまずはレンタルでドイツに慣れてほしいという話だった。そのレンタル先を探している状態から、結果的に移籍先が2部のアウクスブルクになった」というもの。