東大卒・山口真由「都会ではハードルが高すぎる」いつの間にか高級な体験になった、子どもの“自然体験事情”
あくまでも「管理された状態」での体験が、親の希望
子どもの頃、近所には花園川が流れていた。さほど深くも速くもない川で、その河原にはススキが茂っており、子どもたちにとっては格好の秘密基地だった。靴と靴下を脱ぎ捨て、スカートのすそをたくって水の中に足を入れると、冷たい水の流れが爽やかだった。ときに泳ぐ魚を見たり、岩の上のぬるっとした藻に足を滑らせてヒヤッとしたりもした。 だが、いま子どもを自然の川で遊ばせる勇気は私にはない。浅瀬が急に深みに変わるかもしれないから。ちょろちょろと流れていた川でも雨上がりに増水してるかもしれない。毎年、水の事故のニュースを聞くたびに思うのだ。「絶対、子どもは川には入れまい!!」 むき出しの自然はときに暴力的で残酷だ。だから、新しくできた公園の人為的に制御された川に、子どもを連れた親たちは殺到する。水遊び用のおむつを着けた幼い子どもたちでも安心して遊べる水辺は、都会の人気スポットになりつつある。 「新しい体験に臆せずチャレンジできる子になってほしい」 「自然の中で創造性が育まれれば……」 そう口にする親は少なくない。私もその一人だ。その思いに嘘はないのだけど、100%真実かと聞かれるとそれもまた違う。私はおそらく、管理された箱庭の中で、制御可能な障害物を自ら工夫を凝らしながら子どもたちが乗り越えていく、そういうプロセスを見守っていたいのだ。そこでは、もし足を滑らせてもセーフティネットが張り巡らされているという安全安心の確保が必須の条件となる。
令和の自然は、親たちの画策に満ちたワンダーランド
「獅子はわが子を千尋の谷に落とす」 ライオンが生まれたばかりのわが子を深い谷に突き落として、そこから這い上がってきた子のみを育てるとされていることから、わざと厳しい試練を与えて成長させることがわが子への本当の意味での愛情だと説くことわざである。でも、こんなのは少子化の現代にはおよそ当てはまらない。かけがえのないわが子が間違っても怪我をしたり、精神的なトラウマを負わないように、飼いならされた自然の中で手懐けられた動物たちを使って、あらかじめ答えがわかっている“試練”をクリアしてもらおう。令和の自然は、親たちの画策に満ちたワンダーランドとなっている。 昭和の自然の遊び場は安価だったけれどややむき出しだった。都会の高層マンションで暮らす、生活の中で土を見ない子どもたちにとって、自然とは、高度に管理された嗜好品になっていく。この手の自然体験を親のエゴだと嗤う人もいるだろう。だがいつの時代も、やがて大海原に乗り出していかねばらないわが子に、せめて波の静かな内海で訓練してから航海に出てほしいと願うのは、やっぱりまぎれもない親の愛情なんじゃないかと思うのだ。
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