東大卒・山口真由「都会ではハードルが高すぎる」いつの間にか高級な体験になった、子どもの“自然体験事情”
都会では、広い園庭のある保育園がほとんどない
そう感じた最初のきっかけは、保育園の見学に訪れたときだ。地方都市に育った私は、保育園ならここ、幼稚園ならここと住む地域によってデフォルトが決まっていたので、複数の保育園を見学し、園の教育方針やアレルギーの取り扱いなどを詳細に比較したうえで第一希望から第八希望くらいまでを提出するという申込み方式自体が新鮮だった(認可保育園の場合は希望を出してもその通りにいかないこともある)。 口コミでの評価が高い保育園に見学に行ったところ、園長先生がとても熱心に説明してくださって好印象だったのだが、彼女が最初に見せてくれたのが玄関を入ってすぐのところに置かれたいくつものプランターと籠の中の虫たちだったのだ。 都会では広い園庭のある保育園は稀である。プランターや籠で人工的に保護された“自然”の存在は、コンクリートの中で育つ子どもたちを四季の移り変わりに触れさせようという、大人たちのいじましい努力を感じさせた。その後、園長先生は園の四季をイメージできるように、写真を持ってきてくれた。その中に、雪を触って楽しむ園児たちの姿が見受けられる。 「東京ってそんなに雪が積もるんだっけ?」と不思議に思って尋ねると、予算の豊かなこの行政区は、子どもたちが触れ合えるようにとわざわざ雪を運んで届けてくれるのだという。自身が北国の出身だという特殊性はあるものの、軒先の氷柱を折って舐めていた私の子ども時代とは雲泥の差である。
「自然体験」が、目的意識を持ってなされるものになっている
思えば私が子どもの頃、公園はもっともお金のかからない遊び場だった。はないちもんめをして、だるまさんが転んだをして、なんの道具も使わずとも日が暮れるまで過ごすことができた。逆に、最新のソフトウェアをそろえて部屋でテレビゲームの興じる方が、どちらかというとお金のかかる遊びという感覚があった。 ところがいま、ゲームやYouTubeに子守をさせるのは好ましくないとされて、手を掛けお金を掛けたがる親たちは、こぞって子どもを外に連れ出そうとしている。検索してみるだけでさまざまな「自然体験プログラム」の存在が覗える。河原の石を調べたり、火おこしを体験したり、野鳥を観察したり……。 自然体験が子どもの情緒や脳の発達に与える効用についても、もっともらしく説かれている。こうやって、自然体験とは、わざわざ休日に早起きして、所定の、多くの場合、近場とは言えない場所まで子どもを連れて行き、お金を払ってさせるもの、明確な目的意識を持ってなされるものになってきている。 さらにいえば、それは決してむき出しの自然ではないのだ。保育園に送っていくと、親の誰かが「今日はお散歩いきますか?」と保育士に尋ねている光景をよく目にする。「いいえ、今日は室内でのんびりします」という答えよりも、「ええ、近くの公園まで歩きますよ」の方が“いい日”、「今日は天気がいいので遠くまで足を延ばします」の方が“さらにいい日”。 話を聞けば、子どもでも長い距離を歩かせてくれることに魅力を感じている親御さんも少なくない。かといって、子どもの薄い肌を紫外線にさらすのは御法度だから、これでもかと日焼け止めを塗りこみ、首の後ろを保護するネックガード付きの帽子とともに送り出すのだ。