巨人で干され続けた“二軍の四冠王”庄司智久がトレード先のロッテで覚醒できた理由【逆転野球人生】
「当時のロッテはお客さんが少なかったんで(笑)」
終わってみれば80年は124試合で打率.259、8本塁打、26打点、18盗塁という成績を残し、オフには念願の結婚。翌81年はキャンプから右太もも肉離れで出遅れるも、開幕後は不動の一番打者で好調をキープして打率3割越え。チームは2年連続の前期優勝を飾るが、当時のロッテでは、庄司と同い年の遅咲きのスラッガーも売り出し中だった。アマ時代は無名の存在だが、川崎球場の場外へ凄まじい打球を飛ばす背番号6。“史上最強の六番打者”と称された落合博満である。週べ81年7月13日号では「我ら花の“ニッパチ”組」と題した庄司と落合の同学年対談が収録されている。プロ10年目でようやくレギュラーを掴んだ苦労人と、25歳でプロ入りした遅咲きのオレ流。「よく一緒にやったもんな、多摩川で、イースタン」と笑いあう打率トップを争う昭和28年生まれのふたりは、庄司の足について聞かれると、息のあった掛け合いを披露している。 落合「速いけれども、カンが悪いんです、な」 庄司「頭はいいんだけれども、カンが悪くて……(笑)」 落合「オレは庄司ぐらいの足をもっていればどんどん走るけどな」 庄司「走りたいですよ。そりゃあね」 夏のオールスター戦にも初選出。盗塁だけでなく、元同僚の角三男から本塁打も放ってみせた。この81年は自身初の規定打席に到達。打率.293、10本塁打、63打点、17盗塁のキャアハイの成績で年俸も1320万円までアップした。翌年以降は両手が原因不明の皮膚病にかかり、ひどいときにはワイシャツのボタンを止めるだけで手の平が血まみれになったという。バットを満足に振れない時期もあり出場機会も減ったが、84年には左翼のポジションを再奪取して11本塁打をマーク。35歳の88年までプレーし続けた。巨人で8年、ロッテで9年──。通算532安打中、ロッテ移籍後に530安打を放っている。 現役引退後、週べ2000年1月17日号のインタビューで、庄司はトレードの成功を自身でこう振り返る。 「巨人時代は、失敗しちゃいけないってマイナス思考になりがちだった。それが、当時のロッテはお客さんが少なかったんで(笑)、野球に集中できたのもよかったみたいですね。野球って、こんなに簡単だったのか、と思いながらやってました」 実は、ロッテに移籍してきた最初のキャンプで、新聞記者やファンのあまりの少なさを目の当たりにして、前所属の巨人人気の高さを痛感することもあったという。それでも、庄司は過去を引きずらなかった。セ・リーグもパ・リーグも関係ない。オレは今いる場所で輝いてみせる。巨人から出されるくらいなら引退を選ぶという選手もいた時代、庄司智久は腹をくくって巨人軍と決別することで「逆転野球人生」を実現させたのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール