巨人で干され続けた“二軍の四冠王”庄司智久がトレード先のロッテで覚醒できた理由【逆転野球人生】
“張本の影武者”と言われた男の快進撃
だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。79年オフ、庄司は小俣進、田村勲とともに、古賀正明、小川清一との3対2のトレードでロッテへ移籍するのである。慣れない新天地のある日、一緒に移籍した小俣が「おい、ショージ。早く帰ろうぜショージよ」と声をかけたら、「なに? オレを呼んだの」とエースの村田兆治が振り向いたという、恐怖の「チョウジじゃなくてショージ事件」を乗り越え、山内一弘監督は悲運のスピードスターを辛抱強く一軍で使った。 80年5月28日、同じく巨人から移籍した張本勲が史上初の通算3000安打を達成した阪急戦で、左足首捻挫の弘田澄男に代わり途中出場した庄司は移籍後初安打となるプロ初ホームランを放った。巨人時代は8年間チャンスを逃し続けた選手が、ロッテではわずか1打席のチャンスをモノにしたのだ。 翌29日から「一番中堅」で先発起用されると、背番号35はこれまでの鬱憤を晴らすかのように躍動する。30日の南海戦でもホームランを含むプロ初の猛打賞。この日、27歳の誕生日を迎えた庄司は、新宿のマンションでピアノ教師になった彼女とささやかな祝杯をあげた。 弘田が故障する前は代走専門で打席にほとんど立たず、“張本の影武者”と言われた男の快進撃は続く。6月1日にも2試合連発の3ランをかっ飛ばし、週べ80年6月23日号の「走る!疾風男が描くチームと個人の七転八起」特集では、巨人時代に国松彰コーチからの「どんなときでも手を抜くな。どんなときでも全力を尽くせ」という言葉が折れそうな心を支えてくれたと回想しながら、新天地での手応えを語る。 「まだまだトップバッターとしては甘いですよ。(ロッテの)チームメイトはみんないい人ばかり。のびのびとやれる。自然にハッスルする。みんなに迷惑をかけないように“自分のつとめ”を果たさなければ……という思いでいっぱいなんです」 リー兄弟や有藤通世を擁し、“ニュー・ミサイル打線”と称されたロッテは80年前期優勝。山内監督からの「グリップエンドからひと握り短めにバットを持ち、センター返しを狙って鋭く振り抜くバッティングを心掛けよ。バットを振り切ることに徹すれば、自然とヒットの数は増える」という打撃指導もハマった。前期だけで打率.288、5本塁打をマークした苦労人・庄司のキャリアは話題となり、『週刊現代』80年7月17日号にはインタビューも掲載されている。 「ロッテにきて本当によかったと思う。ゲームに出られるだけでも嬉しいのに、こんなに働けたし、チームは前期優勝までしてしまったのですからね。巨人のファームで悶々としていたときには想像もつかなかった感激ですよ。巨人で は、本当につらい、惨めな希望のない二軍暮らしでした。(中略)出してくれ、といってロッテに移ってきたんです。ロッテにきて初めてノビノビできた。それが好結果につながったんですね」