巨人で干され続けた“二軍の四冠王”庄司智久がトレード先のロッテで覚醒できた理由【逆転野球人生】
屈辱の8年が過ぎて
私生活では家賃1万円の球団寮に住み続け、ポール・モーリアのレコードを聴くのが好きで、遊び歩かず給料の3分の2以上を貯金にまわす。多摩川のグラウンドで「今、何時?」と自ら声をかけた音大生の彼女との結婚を夢見る、普通の若者の青春がそこにあった。 さすがにイースタン四冠王という圧倒的な数字はオフにメディアでも度々話題となり、長嶋監督も「彼は突き落としても這い上がってくる男。いつまでもファームの王様でいる男じゃない」と再び庄司に期待を寄せる。背番号も59から38へ。快足の松本匡史と長嶋野球の申し子、“スーパーカーコンビ”と呼ばれ、庄司も78年オープン戦で一試合3盗塁を決めるなど懸命にアピール。『週刊読売』78年2月26日号では、篠塚利夫、西本、松本らとともに「ことしのホープ座談会」に出席すると、こんな決意表明をしている。 「ぼくは100試合出場が目標。できれば130試合。自分のセールスポイントをフルに使って、レギュラーのチャンスをつかみたい。三年前はよく代走に起用され、失敗したが、盗塁のコツをのみ込んだから、ミスは少なくなるでしょう。カージナルスの盗塁王ルー・ブロック。あの人のように走りまくりたい」
しかし、二軍では敵なしの庄司も一軍では失敗を恐れプレーが小さくなる。最大のチャンスであり、勝負の7年目。盗塁はわずか1つ、打率.111に終わった。開幕から2カ月半で二軍降格すると、気落ちして体重が3~4kg減った本人だけでなく、若い選手たちも「俊足、強肩の四冠王。あれだけの人が一軍で通じないなんて……」とショックを受けたほどだった。この78年もイースタンでは26盗塁を決め、3年連続のタイトルを獲得するが、もはやそれが一軍への切符にならないことは25歳の庄司が誰よりも分かっていた。79年は再び一軍出場なし。ミスターが「新しい巨人の基礎を作る」と若手を鍛え直す伊東キャンプのメンバーからも外された。二軍で切磋琢磨した同い年の中畑、プライベートでも仲の良い篠塚、ライバルの松本らに大きく後れを取り、当然焦りもあった。もう田舎に帰ろうか……。二軍では多くのタイトルを獲得するも、一軍ではわずか2安打。屈辱の8年が過ぎ、さすがにクビも覚悟する。