巨人で干され続けた“二軍の四冠王”庄司智久がトレード先のロッテで覚醒できた理由【逆転野球人生】
誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。 【選手データ】庄司智久 プロフィール・通算成績
まさに“二軍の帝王”状態
かつて、イースタン・リーグで首位打者、本塁打王、打点王、盗塁王とタイトルを総なめにしながら、その年の一軍出場ゼロに終わった不運な“二軍の帝王”がいる。 1977(昭和52)年の庄司智久である。和歌山の新宮高では俊足の外野手として鳴らし、71年ドラフト3位で巨人に指名される。当時の巨人は7連覇中だったが、百メートルを11.6秒、一塁まで3.3秒で駆ける庄司の脚力が次代の一番打者候補と期待されたのである。イースタンで27盗塁を記録したプロ3年目の74年には一軍デビュー。翌75年には現役引退して即監督就任の長嶋茂雄が、そのスピードに惚れ込み、走塁のスペシャリストに育てたいと積極的に庄司を起用する。 だが、代走や守備固めで54試合に出場するも、売り物の足は8度盗塁を試みて4度失敗。慣れない内野守備もスローイングに難があり、二塁手で平凡なゴロを弾き決勝点を与える痛恨のエラーをやらかして二軍降格。チームもV9後の世代交代に失敗して、球団初の最下位に沈んだ。王貞治が球界トップの年俸5260万円の時代、庄司は年俸216万円。当時の週べでは「長嶋監督自身先頭にたって売り込んだあとの数々のアクシデント。必死になればなるほど、グラウンド上で唇をかみうなだれる庄司に、野球の神様は試練を与えたのだと思う。くさらず耐え抜いて欲しい」という記事が確認できる。しかし、度重なるミスで首脳陣に見切られた形に。76年は外野専任に戻り、二軍で32盗塁を記録して盗塁王に輝くも、優勝した一軍には呼ばれることはなかった。なお、同年のイースタン打点王は中畑清。最多勝は西本聖である。 不遇の日々だったが、翌77年、プロ6年目の庄司は快挙を達成する。二軍で打率.344、10本塁打、54打点という好成績でイースタン史上初の三冠王に輝くのだ。さらにこちらもイースタン記録を更新する46盗塁で2年連続の盗塁王も獲得(出塁率や得点もリーグトップ)。打って走って四冠王という凄まじい活躍ぶりに、セ・リーグ会長から異例の特別表彰が行われ、30万円相当の腕時計が贈られた。だが、これだけの結果を残しても、同年の一軍出場はなし。王のホームラン世界新記録に沸く後楽園球場は遠く、まさに“二軍の帝王”状態である。