佐藤ヒデ「94歳の私が体内年齢《36歳》!?東北ひとり暮らし、毎日3食きちんと食べて、朝はラジオ体操、夜は湯船で身体を動かす」
◆子どもの頃から「どべっこ」が大好物 私は7人きょうだいの6番目。もうみんな亡くなってしまったのだけれど、晩年まで元気な人が多かったですね。一番上の姉は亡くなる直前までシャキシャキ歩いていたし、2番目の姉なんかは、くも膜下出血を3回も起こしたのに、100歳まで生きましたよ。 父が若くして事故で亡くなった後、当時10代後半だった兄姉たちが親戚からもらったアイスキャンデーの機械で商売を始めたの。家族を食べさせるために、親代わりに必死に働いてくれたんです。そのうち果物なんかも扱い出して、最盛期には350人もの社員を抱える、食料品の卸しやスーパーも手掛ける大きな会社に成長しました。 母は子どもたちの裏方に回り、何もいわずにせっせと家事をしてくれて。私は幼かったから、そんな時でも遊んでばかり。小学校では陸上、女学校ではバレーボールをしていました。運動が大好きだったんです。家に帰ったら、母が出してくれるものを食べる。「とにかく食べることが大事」と母はよくいっていましたね。 子どもの頃からずっと飲んでいるのは甘酒です。地元の酒蔵「酒造」の酒粕で作るどべっこ(甘酒)が大好物。どべっこは体にいいと聞くから、あれがよかったのかもしれないわね。今でも飲んでいるのですが、毎年、春頃にしか売り出されないから、年中飲めるわけではないんです。 でも今年の夏、知り合いが酔仙の酒粕を使って自分で作ったどべっこを持ってきてくれたの。びっくりして、これどうしたの? って聞いたら、酒粕を自分で冷凍保存しているそう。なるほど! と目から鱗。来年から真似をしてみたいと思っています。
◆80歳で被災。自分にできることは 30歳で結婚するまでは家事手伝いをしていました。夫が銀行員だったので、結婚してからは転勤族。当時は単身赴任なんてなかったから、2人の子どもを抱えながら、東北各地を40ヵ所以上も引っ越しました。大変だったけれど、行く先々でさまざまな人と出会い、大変勉強になりましたねぇ。 夫が亡くなってからは、生まれ育った陸前高田に戻り、家業の手伝いを始めました。親戚や友人がたくさんいたから、一人暮らしでも寂しくはなかったわね。 東日本大震災が起きた時は、ちょうど80歳。津波で家を流されてしまい、約3年間、仮設住宅での暮らしになりました。 あの時、脳裏に浮かんだのは、20歳の時に見た、戦後まもない時期の東京。女学校に通うために行っていたのですが、誰もが焼け野原で必死に生きている姿は、それこそ津波以上にひどい状態でした。道のわきで売られていた、大きな鍋で炊いた雑炊を、みんながボロボロの恰好ですすって食べているんです。 自分の父が亡くなった時は、まだ幼くて出番がなかったけれど、いつか私も周りのために何かしたい! そんな思いが根底にありました。だから仮設住宅で暮らしながらも、支援を受けるばかりでなく、自分にできることはないのかと考えていたんです。