「脳に問題がある人は働けず、貧困に陥る」がバッシングされるのはなぜか 貧困は全世代層に普遍的なリスクだ
経済的に困窮しているなら働けばいいのではと思う人は多いのではないでしょうか。でも精神的な障害があり、働きたくても働けない人もいます。周囲からはわかりにくい「精神(脳)障害」と就労の困難さについて、新刊『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』を上梓した、自身が認知機能障害の当事者でもある鈴木大介氏に聞きました。 ■なぜ差別の危惧を感じるのか? 「脳に不自由があるものは働けず、結果として必然的に貧困に陥る」
「脳に障害がある者は貧困になる」 こんな言及をすると、必ずといっていいほど批判の声が寄せられる。たとえば「脳を貧困の原因とすることは、差別を助長しかねない」とい危惧する声などだ。 筆者は以前から、人は低所得に加えて「3つの無縁」(家族の無縁、地域の無縁、制度の無縁)と「3つの障害」(知的障害・発達障害・精神障害)から貧困に陥ると述べてきた。後者については貧困者=障害者であるとミスリードされかねないことから、「3つの障害を挙げることは差別論にもつながりかねないので慎重を要するが」などと10年前に刊行した『最貧困女子』でもエクスキューズを一言加えていた。
だが、今思えばこの配慮、不要だったと思っている。 改めて問いたい。 「働けないのは脳に問題があるからだ」 「脳に問題があるものは働けず、結果として必然的に貧困に陥る」 なぜこうした表現に、差別を危惧する声が多いのだろう? 一方で、 「歩けないのは足に問題があるからだ」 「足に問題があるものは歩くのが困難で、健脚の者が到達できる目的地に、同じ条件で到達できない」 「本が読めないのは、目に問題があるからだ」
「目に問題がある者は墨字が読めず、一般的に売られている本を読むことができない」 これらの言葉に、多くの人は差別の危惧など感じないと思う。 足や目に問題を抱えることで健常者同様の条件でタスクをこなせないという必然の事実に、差別などさしはさむ余地がないからだ。かつては視力に問題のあることや歩行に問題のあることそのものを差別する感情や用語もあったが、今ではそれを思うことも口にすることも、愚劣で恥ずべきことというのが、社会通念となっている。