「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
(11)「謙虚な世界を保てた一つの要因」 笠谷さんは1976年インスブルック五輪で4度目の五輪を終え、現役を退いた。ニッカウヰスキーの社員を続けながら、指導者や全日本スキー連盟(SAJ)の役員などを務めてスキー界から離れなかった。長野五輪は飛型審判員として日本勢のメダルラッシュを見守った。90メートル級の失敗を引きずり続けたが、それも前向きに捉えようとした。 「大倉山で勝っていたら、人生変わっただろうな。でも負けたからその後の人生が持ったようなもの。大成功ではなく、負けた感が強く、それがどう言えばいいの、常にブレーキになった。一歩下がるというか、謙虚な世界を保てた一つの要因だった。有頂天にならなかったので、今があるのではないか」 (12)「陵侑さんのジャンプを見ると、背中がざわつく」 2011年に日本オリンピック委員会の理事を退任し、スポーツ界との縁は切れた。その後もテレビ中継で後輩たちの飛躍を毎シーズン、楽しんだ。そして自分なりのジャンプ理想像、つまりどれが一番飛距離を稼ぐジャンプなのかを頭に描き続けた。日本だけではなく、ジャンプ界の勢力図にも話が及んだ。日本勢では特に、2022年北京五輪のノーマルヒルを制し、ラージヒルで2位になった小林陵侑には注目していた。
「俺の思うジャンプの理想像は、ポーランドのカミル・ストッフだね、あれが完成形。それに近いのはスロベニアのペテル・プレブツ。プレブツは船木さんに近い世界だね。ところがその完成形が勝てない世界になった。よく分からんよ。小林陵侑さんのジャンプなんか見たら、背中がざわっとする。怖い。俺だったら(前に突っ込みすぎて)頭から落ちてしまう。要するに前のめりになるんだけど、それがジャンプでは一番怖い。どうしても本能的に体は後ろに行きたいんだ。それをだまして体を前に持って行かないといけない。ジャンパーのまあ、境目だね。どんな感じなのか、陵侑さんに聞いてみたいね」 ここ数シーズンは小林陵侑の話で盛り上がることが多かった。船木和喜を入れた3人の五輪個人種目金メダリストの座談会をすれば楽しいのでは、と投げかけると「是非したいね」と話していたが、実現する前に体が力尽きた。