「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
(7)「適正スピードが自分に合った」 札幌五輪直前にあった年末年始に4試合で争うジャンプ週間(71年12月29日~72年1月6日、第1戦インスブルック=オーストリア、第2戦ガルミッシュパルテンキルヘン、第3戦オーベルストドルフ=いずれもドイツ、最終戦ビショフスホーフェン=オーストリア)で笠谷さんは3連勝した。全日本スキー連盟(SAJ)は札幌五輪代表の選考を既に終え、12月21日にジャンプ代表7人らを決め、発表した。ジャンプ陣の五輪までの動きも同時に決定された。ジャンプ週間の3試合に出場した後、五輪に備えるために1月5日に帰国し、6日から国内戦4試合に参加するというものだった。このジャンプ週間はそれまで日本選手は1勝もしていなかった。笠谷さんは初戦から3連勝という快挙以上に、五輪の金メダルの布石を手にした。 ジャンプは助走路を滑ってきて踏み切り位置に来たときの滑るスピードにより、ある程度飛距離が決まる。その時最も強いであろう選手が安全に、かつ最も遠くへ飛べる速度にするため、スタート位置を設定しなければならない。速すぎると強豪は飛び過ぎて、危険である。ジャンプ週間での活躍で、自分が飛び過ぎを危ぶまなくてもいいようなスタート位置になったと感じたのである。
「ジャンプというのはね、やみくもに勝とうと思っても勝てないんですよ。自分のジャンプに適したスタートゲートから出られるかどうか、という話さ。それができるようになったのが、あのジャンプ週間だった」 「ジャンプ週間はシーズン最初の試合で、日本チームは中山峠(北海道)でがんがん飛んで臨んだ。欧州のチームは雪上での練習なんてほとんどしていなかった。初戦のインスブルック(オーストリア)なんて、面白かった。国別で公式練習したんだけど、日本チームはみんなK点近くまで飛んだ。そしたらすぐにスタート位置が下がった。力のない日本チームがあれだけ飛ぶんだから、強い国はもっと飛ぶから危険と考えたんだろう。ばかにしてね。でもほかの国は飛べなくなった」 笠谷さんの最終戦欠場は、現地で大きな反響を呼んだ。当時4戦全勝の完全優勝を成し遂げた選手はいない。最大のヒーローが最大の見せ場で姿を消してしまう。大会の事務局長は「誰もしたことがない4連勝をするべきだ。いまの笠谷なら間違いない。パーフェクトでいける」と引き留めに必死だった。「笠谷が抜けたジャンプ週間は気の抜けたビールのようだ」と書いた地元紙もあった。